テオドシウス‐の‐じょうへき〔‐ジヤウヘキ〕【テオドシウスの城壁】
テオドシウスの城壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 23:48 UTC 版)
「イスタンブール歴史地域」の記事における「テオドシウスの城壁」の解説
5世紀初頭にテオドシウス2世の治世に建設され、イスタンブール旧市街を完全に内側に覆いつくしている大城壁。かつては内壁と外壁の二重構造の上、外側には堀がめぐらされ、さらに一定の間隔で塔が建設されて外敵からコンスタンティノポリスを完全に防御した。現在は荒廃が進んでいるが、大部分は城壁の原形を十分に保っている。
※この「テオドシウスの城壁」の解説は、「イスタンブール歴史地域」の解説の一部です。
「テオドシウスの城壁」を含む「イスタンブール歴史地域」の記事については、「イスタンブール歴史地域」の概要を参照ください。
テオドシウスの城壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 21:18 UTC 版)
「コンスタンティノープル」の記事における「テオドシウスの城壁」の解説
5世紀の皇帝テオドシウス2世の命によって建設された三重構造の大城壁。難攻不落を誇り、コンスタンティノープルへと攻め寄せた敵を度々撃退した。オスマン帝国期にある程度の修復が行われ、一部が現存している。
※この「テオドシウスの城壁」の解説は、「コンスタンティノープル」の解説の一部です。
「テオドシウスの城壁」を含む「コンスタンティノープル」の記事については、「コンスタンティノープル」の概要を参照ください。
テオドシウスの城壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「テオドシウスの城壁」の解説
テオドシウスの城壁 (ギリシア語: τεῖχος Θεοδοσιακόν, teichos Theodosiakon)は、東ローマ皇帝テオドシウス2世の時代(408年–450年)の時代に、コンスタンティヌスの城壁の2キロメートル西方に建設された二重の城壁である。まずテオドシウス2世の幼少期に、オリエンス道長官アンテミウスの指揮により第一段階の城壁建設が行われた。ただしテオドシウス法典によれば、この工事は413年に完成したとされているのだが、1993年の発掘調査の結果、この工事は9年を要したことが分かり、したがって着工は先帝アルカディウスの治世中の404/5年であったことになる。この第一段階の城壁は1重の壁と塔で構成されていた。これが後にテオドシウスの城壁と呼ばれるうちの内側の壁の元となる。 437年9月25日と447年11月6日にそれぞれ大地震が起き、コンスタンティヌスの城壁とテオドシウスの第一段階の城壁はともに大きな被害を受けた。特に447年の地震が強烈で、城壁の大部分と57の塔が崩壊するありさまで、さらに翌448年1月にも地震が起きて追い打ちをかけた。そこでテオドシウス2世は、オリエンス道長官フラウィウス・コンスタンティヌスに城壁修復を命じた。この時フン族のアッティラがバルカン半島に侵攻してコンスタンティノープルを狙っており、東ローマ帝国の存亡がいかに素早く城壁を修復できるかにかかっていた。コンスタンティヌスはデーモイ(競馬場の応援団)を雇い、60日で工事を完了したという。これはビザンツ帝国の年代記者たちが記録しているほか、城壁で発見された3つの碑文からも立証されている。この際にテオドシウスの城壁の外壁と濠が追加されたというのが定説である。ただ、もとより内壁もこれらの設備の増設を前提として建設されていたという説もある。 歴史上、コンスタンティノープルの城壁は戦争よりもむしろ地震やリュクス川の洪水によって頻繁に損傷した。同時に幾度も修復工事が行われるたびに、それを指揮した皇帝もしくは政治家の名が刻まれた碑文が建てられた。この城壁修復は、専門の長官であるドメスティコス(コメース)・トーン・テイケオーン (Δομέστικος/Κόμης τῶν τειχέων, Domestikos/Komēs tōn teicheōn)が責任をもって、コンスタンティノープルの住民を動員して行っていた。1204年にコンスタンティノープルが征服されラテン帝国が成立して以降は城壁管理がおろそかになり、1261年にビザンツ帝国が復帰して以降も、資材の欠如のため緊急時以外は十分な管理がなされなかった。
※この「テオドシウスの城壁」の解説は、「コンスタンティノープルの城壁」の解説の一部です。
「テオドシウスの城壁」を含む「コンスタンティノープルの城壁」の記事については、「コンスタンティノープルの城壁」の概要を参照ください。
- テオドシウスの城壁のページへのリンク