ブラケルナエの城壁とは? わかりやすく解説

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ブラケルナエの城壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)

コンスタンティノープルの城壁」の記事における「ブラケルナエの城壁」の解説

ブラケルナエの城壁は、ポルフュロゲネトスの宮殿(テクフル・サラユ)まで続いてきたテオドシウスの城壁北端から、半島北側金角湾沿いにある海の城壁つないでいる城壁で、様々な時代建設され一重城壁によってブラケルナエ地区守っている。高さはおおよそ12メートルから15メートル範囲で、テオドシウスの城壁より厚みがあり、塔と塔の間隔狭かった外側急勾配になっているだけで濠が無いが、例外的に金角湾に近い低地部分ではヨハネス6世カンタクゼノス時代に濠が掘られている。 この地域にあった当初防衛設備城壁通り道については、学者によってさまざまな説提示されている『ノティティア・ウルビス・コンスタンティノポリタナエ』によれば、ブラケルナエを含む第16区コンスタンティノープルの他の市街から離れていて、全周を独自の城壁囲まれていた。さらに、626年包囲戦ペルシアアヴァール人焼き払われるまでは、パナギア・ブラケルニティッサや聖ニコラオス教会といった重要な聖所は第16区城壁の外にあったという記録残っている。第16区城壁痕跡をたどると、ポルフュロゲネトスの宮殿からアネマス牢獄呼ばれるところまでまっすぐ伸びている。またそこから推測としては聖デメトリオス・カナボス教会延び、またポルフュロゲネトスの宮殿戻ってくるというように、本来のコンスタンティノープルの城壁第七の丘あたりから分岐した三角形領域囲っていたと考えられていることが分かる。この城壁明らかにテオドシウスの城壁より古く、おそらく4世紀ごろまでさかのぼると考えられている。ブラケルナエの三角形城壁は後にテオドシウスの城壁取り込まれ三角形西側都市防衛最前線城壁という役割担い続けたが、内壁となった東側手入れされず、荒れるに任された 。 現在、テオドシウスの城壁の第1塔とポルフュロゲネトスの宮殿は、マヌエル・コムネノスの城壁呼ばれる短い城壁接続されている。ここにある小門は、おそらくヨハネス6世カンタクゼノスがポルフュロゲネトスの小門 (πυλὶς τοῦ Πορφυρογεννήτου)と呼んだのである歴史家ニケタス・コニアテスによれば11世紀後半から皇帝在所としてよく使われるようになったブラケルナエ宮殿を守るため、マヌエル1世コムネノス (在位: 1143年1180年)が建設したのがマヌエル・コムネノスの城壁であるという。この約5メートルの高さの城壁は、外壁いくつもアーチ支えられ通常よりも大きなレンガ用いテオドシウスの城壁よりも分厚く防衛設備として非常に優れていた。9つある塔のうち8つ円形もしくは八角形だが、最後1つ四角形になっている城壁全長220メートルで、テオドシウスの城壁からほぼ真右に始まり第3塔まで西進した後、急に北へ曲がっている。この城壁築城技術素晴らしいもので、1453年最後包囲戦の際にオスマン軍激し強襲砲撃ウルバン制作したバシリカ砲よるものを含む)をかけ、坑道掘り爆破しようともしたが、まったく歯が立たなかった。マヌエル・コムネノスの城壁には堀が無かったが、周辺険し地形代わりとなり新たに掘削する必要が無かったためである。この城壁には第2塔と第3塔の間に1つ小門、第6塔と第7塔の間にエーリ・カプ(Eğri Kapıゆがんだ門」の意)と呼ばれる大門があった。このトルコ語名は、門に至る道が一つの墓を迂回して急に曲がっていたことに由来する。おそらくこの墓は、アラブ人がはじめてコンスタンティノープル攻めた674年包囲戦時に戦死したムハンマドの教友の一人ハズレット・ハーフィズのものであるとされている。一般的に、この門はビザンツ時代のカリガリア門 (πόρτα ἐν τοῖς Καλιγαρίοις, porta en tois Kaligariois 「靴屋地区の門」の意)に比定されているが、定かではない。 マヌエル・コムネノスの城壁最後の塔からアネマス牢獄までは、また別の城壁伸びている。全長150メートル4つ四角形の塔を持つこの城壁コムネノス城壁よりも新しいとみられているが、壁が薄く使われている石やレンガ小さいなど、質の面では明らかに劣っている1188年1317年1441年修理されたとする碑文それぞれ残されている。第2塔の後にある壁でふさがれ小門は、ギュロリムネ門 (πύλη τῆς Γυρολίμνης, pylē tēs Gyrolimnēs)に比定されている。この名は金角湾先にあるアルギュラ・リムネーすなわち「銀の池」にちなんでいる。3つの皇帝の胸像置かれていることから、ブラケルナエ宮殿の門として機能していたもの考えられている。一方シュナイダーはこの門はエーリ・カプ(Eğri Kapı)に比定されるべきものだとしている。 アネマスの牢獄までくると、城壁はふたたび内外二重になる。外壁813年にこれを建設したレオーン5世 (r. 813年820年)の名にちなんレオーン城壁呼ばれている。これは、ブルガリア皇帝クルム攻撃を防ぐために築かれたものだったその後次代ミカエル2世 (r. 820年829年)によって南方延長された。レオーン城壁比較簡素で、厚さは3メートル満たず背後アーチ補強されていた。4つの塔と、無数の狭間備えられていた。レオーン城壁背後にある内壁は、 テオフィロス (r. 829年842年)によって建設補強され3つの六角塔があった。内外の壁は26メートル離れていて、それぞれをブラケルナエの門 (πόρτα τῶν Βλαχερνῶν, porta tōn Blachernōn)が貫いていた。2つ城壁挟まれ要塞形成していた地帯ビザンツ時代にはブラケルナエのブラキオニオン(Brachionion)とかブラケルナエのブラキオリオン(Brachiolion 「ブレスレット」の意) (βραχιόνιον/βραχιόλιον τῶν Βλαχερνῶν)と呼ばれオスマン帝国征服後ギリシア語でペンタピュルギオン (Πενταπύργιον, Pentapyrgion, 「五つの塔」の意)と呼ばれた。これはイェディクレ(七塔)要塞対す当てつけである。内壁伝統的に、ミリンゲンやジャニンが言うように、ヘラクレイオス (在位: 610年-641年)がアヴァール・ペルシア軍による包囲戦後にブラケルニティッサ教会を守るため建設したというヘラクレイオス城壁比定されている。しかしシュナイダーはこれをテオドシウス2世がブラケルナエの北側を守るためにアネマス牢獄から金角湾まで建設したという「プテロン」 (Πτερόν, 「翼」)であるとしている。これが正しければ、この城壁はプロテイキスマ(proteichisma, 「アウトワークの意)という位置づけになる。代わりにシュナイダーは、ヘラクレイオス城壁はこの城壁から東の海向けて直接伸びていた、現存しない短い城壁のことであるとした。「プテロン」の位置付けについては、現代学者たちの間でも議論続いていて、未解決の問題となっている。 後に、陸の城壁海の城壁接続点から海へ直接伸びる短い城壁追加された。これはおそらくテオフィロス時代であると考えられていて、木の門 (Ξυλίνη πύλη, Xylinē pylēもしくはΞυλόπορτα, Xyloporta)と呼ばれる門があった。この城壁と門は共に1868年解体された。

※この「ブラケルナエの城壁」の解説は、「コンスタンティノープルの城壁」の解説の一部です。
「ブラケルナエの城壁」を含む「コンスタンティノープルの城壁」の記事については、「コンスタンティノープルの城壁」の概要を参照ください。

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