海の城壁とは? わかりやすく解説

海の城壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)

コンスタンティノープルの城壁」の記事における「海の城壁」の解説

「海の城壁」 (ギリシア語: τείχη παράλια, teichē paralia) は、コンスタンティノープル南側マルマラ海 (プロポンティス)と北側金角湾 (χρυσοῦν κέρας)に面して建てられ城壁である。ビザンツ時代から海の城壁が存在したことは確実であり、痕跡残っているものの、最初に建設され正確な年代について議論続いている。伝統的に、海の城壁はコンスタンティヌス1世が陸の城壁コンスタンティヌスの城壁)と同時に造らせたものとされている。一方で初めて海の城壁の建設に関する言及なされるのは439年のことである。この年首都長官であったパノポリスのキュルス(彼をコンスタンティヌス1世時代近衛長官混同している文献もある)が、市壁修復して海の城壁を完成させるよう命じられた。このことは、同年ヴァンダル人によってカルタゴ陥落し東ローマ帝国による地中海制海権脅かされ始めたことと無関係ではない。以上の2段階で海の城壁が建造されたとするのが定説である。一方で現代の歴史家キュリル・マンゴは、同時代史料で海の城壁が明確に言及されるうになるのははるか後の700年頃であるとして、この定説異議唱えている。 構造の面では、海の城壁はテオドシウスの城壁似ているが、いくらか簡素である。壁は一重で陸の城壁よりかなり低い。これに加えて金角湾から侵入しようとする敵を防ぐため、レオーン3世 (在位: 717年741年)は湾口に太い防鎖わたして封鎖する設備整えた。その両端は、現在のシルケジ地区にあったエウゲニウスの塔と、ガラタ地区にあった正方形の塔カステッリオンに固定された。後者は現在イェラルトゥ(地下)モスクになっている。またマルマラ海側は非常に潮流激しく、船が近づけないことも防衛資した。そのため、ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンによれば第4回十字軍マルマラ海側からコンスタンティノープル攻めことはなかった。 東ローマ帝国初期には、コンスタンティノープルが海側から脅威さらされることはまれであったユスティニアヌス1世地中海一円支配取り戻し、「ローマの池」としたときが帝国海洋での勢力絶頂期であったアヴァール人サーサーン朝組んで初めコンスタンティノープル攻めたときには、市から離れたところで海戦が行われた。しかしアラブ人シリアエジプト征服したことで、東ローマ帝国海洋覇権崩れ、海から脅かされる恐れ生まれたその結果8世紀前半に、ティベリウス3世 (在位: 698年705年)やアナスタシオス2世 (在位: 713年715年)、ミカエル2世 (在位: 820年829年)のもとで、 海の城壁の大規模な改修が行われた。この事業テオフィロス (在位: 829年842年)に完成をみて、城壁は高さを増したこうした首都防衛徹底ぶりは、イスラーム勢力クレタ島征服したときに防衛予算割こうとしなかったのとは対照的である。コンスタンティノス・マナセスは、「国家金貨はまるで無価値小石あるかのように惜しげもなく費やされた。」と記している。テオフィロスがいかに海の城壁整備事業注力したのかは、彼の名を刻んだ碑文が他の皇帝比べてはるかに多く海の城壁跡から見つかっていることからもわかる。それ以降改修修復を経つつも、海の城壁は東ローマ帝国滅亡までコンスタンティノープル防衛重要な役割果たし続けた1203年1204年第4回十字軍によってコンスタンティノープル陥落したとき、海の壁やすやすヴェネツィア軍に陥とされてしまい、ここがコンスタンティノープル防衛弱点であることが露呈した。後にコンスタンティノープル奪回し東ローマ帝国再建したミカエル8世パレオロゴス (在位: 1259年1282年)は、ラテン諸国逆襲備えて海の城壁の強化かさ上げ急いだ。さらにミカエル8世ニンファエウム条約ジェノヴァ共和国金角湾対岸ガラタ与えてしまっていたため、北から潜在的脅威にも対処しなければならなかった。結果として海の城壁は2メートルほど高くなり、木製覆いかけられた。またミカエル8世は、後にシャルル・ダンジューコンスタンティノープル脅かされた際に、従来の海の城壁の内側にもう1層城壁築いたというが、この内壁の痕跡今日残っていない。 海の城壁はアンドロニコス2世パレオロゴス (在位: 1282年1328年)によって修復されたが、1332年2月12日コンスタンティノープル襲った大嵐のため城壁裂け目生じたため、アンドロニコス3世パレオロゴス (在位: 1328年1341年)のもとでもう一度修復された。1351年ヨハネス6世カンタクゼノスジェノヴァ共和国戦争するにあたり金角湾沿いの海の城壁を修復し、その前に水堀まで開削した。1434年にも対ジェノヴァ戦に備えて修復が行われた。最後オスマン帝国による包囲戦前にも、コンスタンティノス11世はセルビア専制公ジュラジ・ブランコヴィチの資金援助受けて城壁修復した

※この「海の城壁」の解説は、「コンスタンティノープルの城壁」の解説の一部です。
「海の城壁」を含む「コンスタンティノープルの城壁」の記事については、「コンスタンティノープルの城壁」の概要を参照ください。

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