海の城壁
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「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「海の城壁」の解説
「海の城壁」 (ギリシア語: τείχη παράλια, teichē paralia) は、コンスタンティノープルの南側のマルマラ海 (プロポンティス)と北側の金角湾 (χρυσοῦν κέρας)に面して建てられた城壁である。ビザンツ時代から海の城壁が存在したことは確実であり、痕跡も残っているものの、最初に建設された正確な年代については議論が続いている。伝統的に、海の城壁はコンスタンティヌス1世が陸の城壁(コンスタンティヌスの城壁)と同時に造らせたものとされている。一方で、初めて海の城壁の建設に関する言及がなされるのは439年のことである。この年、首都長官であったパノポリスのキュルス(彼をコンスタンティヌス1世の時代の近衛長官と混同している文献もある)が、市壁を修復して海の城壁を完成させるよう命じられた。このことは、同年にヴァンダル人によってカルタゴが陥落し、東ローマ帝国による地中海制海権が脅かされ始めたことと無関係ではない。以上の2段階で海の城壁が建造されたとするのが定説である。一方で現代の歴史家キュリル・マンゴは、同時代史料で海の城壁が明確に言及されるようになるのははるか後の700年頃であるとして、この定説に異議を唱えている。 構造の面では、海の城壁はテオドシウスの城壁に似ているが、いくらか簡素である。壁は一重で陸の城壁よりかなり低い。これに加えて金角湾から侵入しようとする敵を防ぐため、レオーン3世 (在位: 717年–741年)は湾口に太い防鎖をわたして封鎖する設備を整えた。その両端は、現在のシルケジ地区にあったエウゲニウスの塔と、ガラタ地区にあった正方形の塔カステッリオンに固定された。後者は現在イェラルトゥ(地下)モスクになっている。またマルマラ海側は非常に潮流が激しく、船が近づけないことも防衛に資した。そのため、ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンによれば、第4回十字軍もマルマラ海側からコンスタンティノープルを攻めることはなかった。 東ローマ帝国初期には、コンスタンティノープルが海側からの脅威にさらされることはまれであった。ユスティニアヌス1世は地中海一円の支配を取り戻し、「ローマの池」としたときが帝国の海洋での勢力の絶頂期であった。アヴァール人とサーサーン朝が組んで初めてコンスタンティノープルを攻めたときには、市から離れたところで海戦が行われた。しかしアラブ人がシリアやエジプトを征服したことで、東ローマ帝国の海洋覇権は崩れ、海から脅かされる恐れが生まれた。その結果8世紀前半に、ティベリウス3世 (在位: 698年–705年)やアナスタシオス2世 (在位: 713年–715年)、ミカエル2世 (在位: 820年–829年)のもとで、 海の城壁の大規模な改修が行われた。この事業はテオフィロス (在位: 829年–842年)に完成をみて、城壁は高さを増した。こうした首都防衛の徹底ぶりは、イスラーム勢力がクレタ島を征服したときに防衛に予算を割こうとしなかったのとは対照的である。コンスタンティノス・マナセスは、「国家の金貨はまるで無価値な小石であるかのように惜しげもなく費やされた。」と記している。テオフィロスがいかに海の城壁整備事業へ注力したのかは、彼の名を刻んだ碑文が他の皇帝と比べてはるかに多く海の城壁跡から見つかっていることからもわかる。それ以降改修や修復を経つつも、海の城壁は東ローマ帝国滅亡までコンスタンティノープル防衛に重要な役割を果たし続けた。 1203年と1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノープルが陥落したとき、海の壁はやすやすとヴェネツィア軍に陥とされてしまい、ここがコンスタンティノープル防衛の弱点であることが露呈した。後にコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を再建したミカエル8世パレオロゴス (在位: 1259年–1282年)は、ラテン諸国の逆襲に備えて海の城壁の強化とかさ上げを急いだ。さらにミカエル8世はニンファエウム条約でジェノヴァ共和国に金角湾の対岸のガラタを与えてしまっていたため、北からの潜在的脅威にも対処しなければならなかった。結果として海の城壁は2メートルほど高くなり、木製の覆いがかけられた。またミカエル8世は、後にシャルル・ダンジューにコンスタンティノープルを脅かされた際に、従来の海の城壁の内側にもう1層の城壁を築いたというが、この内壁の痕跡は今日に残っていない。 海の城壁はアンドロニコス2世パレオロゴス (在位: 1282年–1328年)によって修復されたが、1332年2月12日にコンスタンティノープルを襲った大嵐のため城壁に裂け目が生じたため、アンドロニコス3世パレオロゴス (在位: 1328年–1341年)のもとでもう一度修復された。1351年、ヨハネス6世カンタクゼノスはジェノヴァ共和国と戦争するにあたり、金角湾沿いの海の城壁を修復し、その前に水堀まで開削した。1434年にも対ジェノヴァ戦に備えて修復が行われた。最後のオスマン帝国による包囲戦の前にも、コンスタンティノス11世はセルビア専制公ジュラジ・ブランコヴィチの資金援助を受けて城壁を修復した。
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