コンスタンティヌスの城壁とは? わかりやすく解説

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コンスタンティヌスの城壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)

コンスタンティノープルの城壁」の記事における「コンスタンティヌスの城壁」の解説

4世紀前半内戦で、ビザンティウム先の内戦とまったく同じ運命たどったリキニウス味方したためにコンスタンティヌス1世征服されたのだが、次第コンスタンティヌス1世もこの都市地理的重要性気づき324年から336年にかけて再建していった。その過程コンスタンティヌス1世は、330年5月11日ビザンティウムを「第二ローマ」と呼んで落成式行った次第にこの都市は、「コンスタンティヌス都市」を意味するコンスタンティノポリス (ギリシア語: Κωνσταντινούπολις, Konstantinoupolis 英語名コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった新生コンスタンティノープルでは、セウェルスの城壁のさらに2.8キロメートル15スタディア西方新たな城壁築かれた。コンスタンティヌスの城壁は1重ながら、324基もの塔で防御固めることになった。この工事は、息子コンスタンティウス2世時代まで続いた。コンスタンティヌスの城壁の位置も、わずかな部分しか判明していない。金角湾の聖アントニウス教会現在のアタチュルク付近)から南西伸びてモキウスの貯水池アスパルの貯水池東側抜けマルマラ海沿岸テオトコス教会付近終わっていたとされる。 しかし5世紀前半までに、コンスタンティノープルはコンスタンティヌスの城壁を越えて発展した。この城壁外の地域はエクソキオニオン(Exokionion)と呼ばれたこの後もコンスタンティヌスの城壁は長きわたって生きながらえたが、実際コンスタンティノープル境界防衛役割5世紀前半テオドシウス防壁に取って代わられた。478年9月25日コンスタンティノープル大地震襲われ、「内壁」が大きな被害受けたという記録がある。これはコンスタンティヌスの城壁を指した記録であると考えられる。また聖テオファネスによれば、この城壁557年地震でも被害受けたそれでもなおコンスタンティヌスの城壁は大部分残っていたが、ゲオルギオス・ケドレノスによれば、「エクソキオニオンの城壁」(コンスタンティヌスの城壁)が867年地震崩壊した。これ以降は、コンスタンティヌスの城壁はわずかに痕跡を残すのみとなった。ただ、19/20世紀オスマン帝国学者アレクサンダー・ファン・ミリンゲンによれば、イサカプ地域には19世紀前半までコンスタンティヌスの城壁の一部残っていたという。現在のイェニカプ運送センター建設される際、コンスタンティヌスの城壁の基礎発掘されている。

※この「コンスタンティヌスの城壁」の解説は、「コンスタンティノープルの城壁」の解説の一部です。
「コンスタンティヌスの城壁」を含む「コンスタンティノープルの城壁」の記事については、「コンスタンティノープルの城壁」の概要を参照ください。

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