コンスタンティヌスの城壁
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「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「コンスタンティヌスの城壁」の解説
4世紀前半の内戦で、ビザンティウムは先の内戦とまったく同じ運命をたどった。リキニウスに味方したためにコンスタンティヌス1世に征服されたのだが、次第にコンスタンティヌス1世もこの都市の地理的重要性に気づき、324年から336年にかけて再建していった。その過程でコンスタンティヌス1世は、330年5月11日にビザンティウムを「第二のローマ」と呼んで落成式を行った。次第にこの都市は、「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス (ギリシア語: Κωνσταντινούπολις, Konstantinoupolis 英語名コンスタンティノープル)と呼ばれるようになった。新生コンスタンティノープルでは、セウェルスの城壁のさらに2.8キロメートル(15スタディア)西方に新たな城壁が築かれた。コンスタンティヌスの城壁は1重ながら、324基もの塔で防御を固めることになった。この工事は、息子のコンスタンティウス2世の時代まで続いた。コンスタンティヌスの城壁の位置も、わずかな部分しか判明していない。金角湾の聖アントニウス教会(現在のアタチュルク橋付近)から南西に伸びてモキウスの貯水池やアスパルの貯水池の東側を抜け、マルマラ海沿岸のテオトコス教会付近で終わっていたとされる。 しかし5世紀前半までに、コンスタンティノープルはコンスタンティヌスの城壁を越えて発展した。この城壁外の地域はエクソキオニオン(Exokionion)と呼ばれた。この後もコンスタンティヌスの城壁は長きにわたって生きながらえたが、実際のコンスタンティノープルの境界と防衛の役割は5世紀前半にテオドシウスの防壁に取って代わられた。478年9月25日、コンスタンティノープルは大地震に襲われ、「内壁」が大きな被害を受けたという記録がある。これはコンスタンティヌスの城壁を指した記録であると考えられる。また聖テオファネスによれば、この城壁は557年の地震でも被害を受けた。それでもなおコンスタンティヌスの城壁は大部分が残っていたが、ゲオルギオス・ケドレノスによれば、「エクソキオニオンの城壁」(コンスタンティヌスの城壁)が867年の地震で崩壊した。これ以降は、コンスタンティヌスの城壁はわずかに痕跡を残すのみとなった。ただ、19/20世紀のオスマン帝国の学者アレクサンダー・ファン・ミリンゲンによれば、イサカプ地域には19世紀前半までコンスタンティヌスの城壁の一部が残っていたという。現在のイェニカプ運送センターが建設される際、コンスタンティヌスの城壁の基礎が発掘されている。
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