コンスタンティヌスの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 10:19 UTC 版)
「道 (ローマ帝国)」の記事における「コンスタンティヌスの死後」の解説
337年のコンスタンティヌスの死後、3人の息子は帝国を分割し、新しい皇帝は各々プラエフェクトゥス・プラエトリオ(道長官)を配下に置いた。この区分は徐々に変化し、後に恒久化する道の最初の形となった。 道の成立当初 ガリア道 ブリタンニア管区 ガリア管区 ウィエネンシス管区 ヒスパニア管区 イタリア、イリュリクムおよびアフリカ道 イタリア管区イタリア食糧供給区 イタリア首都近郊区 パンノニア管区 ダキア管区 マケドニア管区 アフリカ管区 オリエンス道 トラキア管区 アシア管区 ポントゥス管区 オリエンス管区 4道の確立以後 ガリア道 ブリタンニア管区 ガリア管区 ウィエネンシス管区 ヒスパニア管区 イタリア道 イタリア管区イタリア食糧供給区 イタリア首都近郊区 イリュリクム管区 アフリカ管区 イリュリクム道 ダキア管区 マケドニア管区 オリエンス道 トラキア管区 アシア管区 ポントゥス管区 オリエンス管区 アエギュプトゥス管区 - 367年にオリエンス管区から分離 356年 - 357年に実施されたイリュリクム道(パンノニア管区、ダキア管区、マケドニア管区)の分離とともに、5世紀初頭の『ノティティア・ディグニタトゥム』に記載される状況はほぼ確立された。イリュリクム道の一時廃止はあったものの、379年に行われたパンノニア管区のイタリア道への移転および「イリュリクム管区」への改称がほとんど唯一の大きな変化であった。イタリア管区は、実際には北部の食料供給区(Italia annonaria)と南部の首都近郊区(Italia suburbicaria)の2つに分けられていた。 各管区には管区代官( (vices agens praefectorum praetorio) , 道長官代理)が配置されていたが、ガリア管区およびダキア管区は道長官の所在地だったため、代官は置かれなかった。イタリア道長官がメディオラヌムに滞在する間はイリュリクム管区代官はシルミウムに駐在するよう指示され、逆に道長官がシルミウムに滞在する間は、イリュリクム管区代官は置かれず、道長官に代わってメディオラヌムに駐在する代官が任命された。また、オリエンス管区には例外的に総監 (comes) が置かれた。
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