帝政後期
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「イタリア本土 (古代ローマ)」の記事における「帝政後期」の解説
帝国の衰退により蛮族侵入が帝国の最重要課題となると、皇帝は侵入に合わせて東方の土地に赴く機会が増えるようになった。 コンスタンティヌス1世が皇帝に即位すると、コンスタンティヌスは東方皇帝領であったコンスタンティノープルを新たな東方の拠点として宣言、首都ローマ市に倣って元老院など幾つかの行政施設をコンスタンティノープルにも設けた。しかし、当時はコンスタンティヌス1世がローマに代わる「新しいローマ」を建設したという考えは存在しなかったようである。コンスタンティヌス以降の皇帝達もコンスタンティノープルに常住したわけではなかったし、当初は法務官、護民官、財務官、首都長官といった重要な首都機能もコンスタンティノープルには整備されていなかった(ただし財務官と法務官はディオクレティアヌス時代に既に重要な職種ではなくなっていたと考えられ、コンスタンティノープル長官は358年12月11日又は9月11日に設置されたとされる[要出典])。コンスタンティノープルがその重要性を増した5世紀後半においてもローマ帝国全体の首都はローマ市とされており、その権威は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルより上位のものとされた。 テオドシウス帝の死後、東方皇帝と西方皇帝の対立が深まり、西ローマ帝国・東ローマ帝国とも呼ばれる東西の政治的分離が発生する。その中でイタリアは帝国西方の中心地となったが、西ローマ皇帝の宮廷はテトラルキア制に従ってメディオラヌムのままであり、また後に宮廷が移された際も帝都ローマではなくラヴェンナが選ばれた。「ノティティア・ディグニタートゥム」によれば、420年にイタリア行政区の大規模な再編を行ったという。 しかし相次ぐ蛮族の侵入に西方皇帝は有効な対処を行えず、蛮族が幾度もイタリアを脅かす日々が続いた。フン族のアッティラによってイタリア北部は壊滅的な打撃を受け、またヴァンダル族によって帝都ローマが略奪されるなど、3世紀の危機にもなかった戦禍がイタリアを襲った。5世紀後半に入ると西方帝国の属州はほとんど蛮族に奪われ、更にイタリアも皇帝の後ろ盾となった蛮族によって統治される時代となっていた。 476年にロムルス・アウグストゥルスの退位と、オドアケルによる西方帝位の東方皇帝への返還によって西ローマ帝国からローマ皇帝の地位は消滅した。以降、オドアケルは東方皇帝より「イタリア領主」の地位を与えられ、ローマ皇帝の代官としてイタリアを統治した。オドアケルの後には東ゴート王国の王がおおむねこの地位を踏襲し、77年間にわたってこうした支配方法が続いた。 553年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命を受けたベリサリウス将軍によって東ゴート王国は滅ぼされ、イタリアは再びローマ皇帝の支配下へと戻った。しかしユスティニアヌス1世はイタリアを本国とすることはなく、「ラヴェンナ地方区」として総督による統治を継続した。しかし、6世紀中にはイタリア全域がランゴバルト王国の手へと移った。 8世紀にランゴバルト王国が滅ぼされた後は、教皇領や神聖ローマ帝国・ヴァイキング・アラブ人などによる分立の時代を迎える。イタリアが再び一つの領域として大部分がまとめられるのは、サルデーニャ・ピエモンテ王国によるイタリア統一後のこととなる。
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帝政後期
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「プラエフェクトゥス・プラエトリオ」の記事における「帝政後期」の解説
ディオクレティアヌスの治世になるとプラエトリアニは権限を大幅に削減された。コンスタンティヌス1世の時代には、プラエトリアニが解散され、プラエフェクトゥス・プラエトリオの職務からも軍事的要素が取り除かれた。コンスタンティヌスの死後は、ガリア・イタリア・イリュリクム・オリエンスの4つの道(行政区)の長官として、皇帝にとって信頼できる高官(文官)としての役割を果たすようになった。
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