第二帝政後期(1860年代)
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「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「第二帝政後期(1860年代)」の解説
1860年代前半には、ベルギー人画商のアルチュール・ステヴァンスおよびそのビジネス・パートナーであるエヌモン・ブランと長期契約を結び、経済的に安定するようになってきた。1862年には、グーピル商会との取引が始まった。 1861年のサロンでは、『羊の毛を刈る女性』、『ミルク粥』、『待つ人』の3作品が入選した。『羊の毛を刈る女性』は、サロンで賞賛された。この年、第8子(三男)ジョルジュが生まれた。 1863年のサロンに、代表作の一つとなる『鍬に寄りかかる男』を出品したが、重労働にあえぐ農民の姿は、サロンでは酷評された。「脱走した殺人者がモデルではないか」との評もあった。他に『羊毛を梳く女』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を出品している。 1864年のサロンで、『羊飼いの少女』と『仔牛の誕生』を出品した。『羊飼いの少女』は、好評を博して1等賞を与えられた。批評家ジュール=アントワーヌ・カスタニャリは、「大地と空、情景と人物が呼応し、結び付いている。技巧ではなく精神が、表面的な魅力の陰に存在している。まさに最高峰の芸術」と絶賛した。文科省美術局から1500フランで政府買上げの申出がされたが、もともと個人からの注文品であったことから、断った。この作品の成功を機に、ミレーの評価は一気に高まった。他方、『仔牛の誕生』は、ゴーティエから「未来の聖牛アピスを運んでいるエジプトの司祭たちのような、農民たちの馬鹿げた厳粛さ」と言われるなど、酷評を浴びた。 この年1月、ミレーは、友人の建築家アルフレッド・フェイドーから、フェイドーが設計した銀行家トマの邸宅の4枚の装飾パネルを依頼された。ミレーは、これに応じ、『春(ダフニスとクロエ)』、『夏(豊穣の女神)』ほか2点(秋は現存せず)の「四季」連作を制作した。これは、1852年に同じくフェイドーから注文を受けて制作した「四季」連作から数えて2回目である。 1865年9月、パリの実業家エミール・ガヴェが、テオドール・ルソーの紹介でミレーに会い、パステル画を大量に注文したいと申し出た。パステル画は、完成が早いことから、短期間にミレー・コレクションを作りたいという計画であった。3年間集中して制作してくれれば、月給として1000フランを支払うという条件が示された。結局、ミレーは、1870年までに95枚のパステル画を納品した。その頃、ボストン出身の大富豪クィンシー・アダムズ・ショー(英語版)もミレーの油絵とパステル画を多数収集するようになり、後にボストン美術館のコレクションに引き継がれることになる。また、1866年2月に妹が亡くなり、グリュシーに帰省したこと、6月から7月にかけて、妻の湯治のため、オーヴェルニュ地方の温泉地ヴィシーに滞在したことを機に、パステル画で多くの風景画も制作するようになった。グリュシーに帰省した際には、初めての大型の風景画『グリュシーの村はずれ』を制作し、サロンに出品したが、余り注目を集めなかった。パステル画では絵具のように混色できないこともあって、油絵でも、それまでの褐色を基調としていた絵は、明るい色彩が増えてきた。ガヴェとの契約で収入が安定し、1866年から1868年にかけて、毎年ヴィシーを訪れる余裕ができたのもそのためである。 1867年には、パリ万国博覧会の美術展覧会が開催された。ミレーは一室を与えられ、『馬鈴薯の収穫』、『死と木こり』、『落穂拾い』、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』、『羊の毛を刈る女』、『羊飼いの少女』、『馬鈴薯植え』、『晩鐘』、『羊の牧舎、月光』という9点の代表作を出展した。これによってミレーは巨匠としての名声を確立した。同年のサロンでも、『烏のいる冬景色』と『鵞鳥番の少女』を出品して1等賞を与えられた。 『子どもに食べさせる母(ついばみ)』1860年頃。油彩、キャンバス、74 × 60 cm。リール宮殿美術館。 『ミルク粥』1861年。油彩、キャンバス、114 × 99 cm。マルセイユ美術館。1861年サロン入選。 『鍬に寄りかかる男』1860-62年。油彩、キャンバス、81.9 × 100.3 cm。ゲティ・センター(英語版)。1863年サロン入選。 『烏のいる冬景色』1862年。油彩、キャンバス、60.3 × 73.6 cm。オーストリア・ギャラリー。1867年サロン入選。 『水浴する鵞鳥番の少女』1863年頃。油彩、キャンバス、38.5 × 46.5 cm。ウォルターズ美術館。 『羊飼いの少女』1863年頃。油彩、キャンバス、81 × 101 cm。オルセー美術館。1864年サロン入選。 『仔牛の誕生』1864年。油彩、キャンバス、81.1 × 100 cm。シカゴ美術館。1864年サロン入選。 『春(ダフニスとクロエ)』1865年。油彩、キャンバス、235.5 × 134.5 cm。国立西洋美術館(東京)。 『夏(豊穣の女神)』1864-65年。油彩、キャンバス、266 × 135 cm。ボルドー美術館。 『星の夜』1850-65年。油彩、キャンバス、65.4 × 81.3 cm。イェール大学美術館(英語版)。 『グリュシーの村はずれ』1866年。油彩、キャンバス、81.6 × 100.6 cm。ボストン美術館。1866年サロン入選。 『鵞鳥番の少女』1866-67年。油彩、キャンバス、45.7 × 55.9 cm。東京富士美術館。1867年サロン出品は異作品。
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