第二帝政前期(1850年代)
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「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「第二帝政前期(1850年代)」の解説
1851年5月には、幼い時にミレーの世話をしてくれた祖母が故郷グリュシーで亡くなった。しかし、祖母も母もミレーの再婚を認めておらず、ミレーは子供の存在も実家に隠していたため、グリュシーに帰ることはなかった。12月、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、さらに1852年12月に皇帝(ナポレオン3世)に即位し、フランス第二帝政が始まった。ミレーは、1853年のサロンに、旧約聖書のルツ記に題材をとった農民画『刈入れ人たちの休息(ルツとボワズ)』ほか2点を出品し、好評を得て2等賞を与えられた。批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、「彼の『刈入れ人たちの休息』は、ホメロスの牧歌を方言で語ったものだ。ここには詩があり、大衆の尊厳がある!」と賞賛した。この頃、ミレーにはアメリカ人コレクターが付くようになり、『刈入れ人たちの休息』は後のボストン美術館初代館長マーティン・ブリンマー(英語版)が購入した。従来からの支援者サンシエも、作品を愛好家に紹介したり、自ら購入したりして、ミレーを支えた。 1853年には、アルフレッド・フェイドーの注文による「四季」連作を制作した。そのうち1枚が『落穂拾い、夏』であり、後のサロン出品作『落穂拾い』につながる作品となっている。 1853年4月、母が亡くなり、5月、ミレーは遺産相続のために1845年以来初めて故郷に帰省した。また、カトリーヌと正式に結婚した。 1855年のサロンは、パリ万国博覧会の美術展覧会に吸収されて実施された。ミレーは、3点を提出したが、『木こり』と『草を焼く農婦』は落選し、『接ぎ木をする農夫』だけが入選した。『接ぎ木をする農夫』は、評価は悪くなかったが、買手がつかなかった。すると、友人テオドール・ルソーが、4000フランで購入を希望するアメリカ人を見つけたと言って、取引を仲介してくれた。実際には、博覧会で成功を収めたルソーが、友人の尊厳を慮って、アメリカ人の買手を装いながら、自らの資金でこの作品を購入したのであった。1856年3月には、第5子(四女)エミリーが生まれた。 サンシエの伝記によれば、1856年以降の数年間は、ミレーにとって特に経済的に苦しい時期であった。予定していた絵の買手が、代金の額に納得せず、売れずに残ってしまったこともあった。2人の弟が同居するようになり、家族の人数が増えたことも生活を苦しくした。ミレーは、サンシエに、洋服屋やパン屋の集金人、執行吏たちが押しかけてくる様子を伝え、資金の援助を依頼している。他方、この頃から、羊飼いのテーマに魅了されるようになり、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などの制作に着手している。 ミレーは、1857年のサロンに、『落穂拾い』を出品した。落穂拾いとは、地主の麦畑の収穫を手伝う零細農民が、手間賃のほかに、1割ほど残された落ち穂を拾う権利を有するという風習であるが、1854年、地主階級がこれを廃止しようと運動を始め、2年間の論議の末、収穫が終わった後に行うこと、農婦と子供のみが行うこと、日没前までとすること、監視員を付けることといった制限が課された上で認められることになった。ミレーは、以前から取り組んでいた落穂拾いの構図を完成させてサロンに臨んだ。畑には、拾うべき麦穂がほとんど落ちていない上、農婦の脇の下に破れ目が見えるなど、農民の貧しさを強調した内容となっている。この作品も、政治に敏感なサロンで議論を巻き起こし、保守派からは厳しく非難される一方、左派からは農民の美徳を表したものと評価された。かつて『刈入れ人たちの休息』を賞賛した批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、今度はミレーを批判する側に回った。この年、第6子(二男)シャルルが生まれた。 また、この年、ミレーは、ボストン出身の美術収集家トマス・ゴールド・アップルトン(英語版)の注文を受け、『晩鐘』を制作した。しかし、アップルトンが引取りに来なかったため、1860年に1000フランで売却している。ミレーによれば、これは、祖母の思い出をもとに描いた作品である。バルビゾンの隣に広がるシャイイの平原に鳴り響く晩鐘を合図に、農民夫婦が手を休め、「主の御使い」から始まる祈りを捧げる場面である。 1858年、ローマ法王の特別列車のために、ミレーに『無原罪の御宿り』の注文があった。ミレーはこれに応じて作品を納めたが、法王庁の枢機卿らの期待していたものとは違い、片隅に追いやられてしまったようである。 1859年のサロンでは、『死と木こり』が落選し、『牛に牧草を食べさせる農婦』のみが入選した。作家デュマや『ガゼット・デ・ボザール』誌はミレーの落選作を擁護したが、従来支持してきたテオフィル・ゴーティエが批判に回り、詩人シャルル・ボードレールも酷評した。1853年のサロンで得た無鑑査の資格も喪失した。 『仕事に出かける人』1851-53年。油彩、キャンバス、55.9 × 45.7 cm。シンシナティ美術館。 『刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』1851-53年。油彩、キャンバス、67.3 × 119.7 cm。ボストン美術館。1853年サロン入選。 『羊の毛を刈る女』1852-53年。油彩、キャンバス、40.7 × 24.8 cm。ボストン美術館。 『クーザン村』1854-73年。油彩、キャンバス、73.2 × 92.4 cm。ランス美術館。 『接ぎ木をする農夫』1855年。油彩、キャンバス、81 × 100 cm。ノイエ・ピナコテーク。1855年サロン入選。 『パンを焼く農婦』1853-54年。油彩、キャンバス、55 × 46 cm。クレラー・ミュラー美術館。 『落穂拾い』1857年。油彩、キャンバス、83.5 × 110 cm。オルセー美術館。1857年サロン入選。 『晩鐘』1857-59年。油彩、キャンバス、55.5 × 66 cm。オルセー美術館。1867年万博展出展。 『死と木こり』1858-59年。油彩、キャンバス、77 × 100 cm。ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館。1859年サロン落選。
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