第二帝政前期とは? わかりやすく解説

第二帝政前期(1850年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:55 UTC 版)

ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「第二帝政前期(1850年代)」の解説

1851年5月には、幼い時にミレー世話をしてくれた祖母故郷グリュシーで亡くなった。しかし、祖母も母もミレー再婚認めておらず、ミレー子供存在実家隠していたため、グリュシーに帰ることはなかった。12月ルイ・ナポレオンクーデター起こし、さらに1852年12月皇帝ナポレオン3世)に即位しフランス第二帝政始まったミレーは、1853年サロンに、旧約聖書ルツ記題材をとった農民画刈入れ人たちの休息ルツとボワズ)』ほか2点出品し好評得て2等賞を与えられた。批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、「彼の刈入れ人たちの休息』は、ホメロス牧歌方言語ったものだ。ここには詩があり、大衆尊厳がある!」と賞賛した。この頃ミレーにはアメリカ人コレクターが付くようになり、『刈入れ人たちの休息』は後のボストン美術館初代館長マーティン・ブリンマー(英語版)が購入した従来からの支援者サンシエも、作品愛好家紹介したり、自ら購入したりして、ミレー支えた1853年には、アルフレッド・フェイドーの注文による「四季連作制作したそのうち1枚が『落穂拾い、夏』であり、後のサロン出品作落穂拾い』につながる作品となっている。 1853年4月、母が亡くなり5月ミレー遺産相続のために1845年以来初め故郷帰省したまた、カトリーヌ正式に結婚した1855年サロンは、パリ万国博覧会美術展覧会吸収され実施された。ミレーは、3点提出したが、『木こり』と『草を焼く農婦』は落選し、『接ぎ木をする農夫』だけが入選した。『接ぎ木をする農夫』は、評価悪くなかったが、買手がつかなかった。すると、友人テオドール・ルソーが、4000フラン購入希望するアメリカ人見つけたと言って取引仲介してくれた。実際には、博覧会成功収めたルソーが、友人尊厳慮ってアメリカ人買手装いながら、自らの資金でこの作品購入したであった1856年3月には、第5子(四女エミリー生まれた。 サンシエの伝記によれば1856年以降数年間は、ミレーにとって特に経済的に苦し時期であった予定していた絵の買手が、代金の額に納得せず、売れず残ってしまったこともあった。2人の弟が同居するようになり、家族人数増えたことも生活を苦しくした。ミレーは、サンシエに、洋服屋パン屋集金人執行吏たちが押しかけてくる様子伝え資金援助依頼している。他方この頃から、羊飼いテーマ魅了されるようになり、『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などの制作着手している。 ミレーは、1857年サロンに、『落穂拾い』を出品した落穂拾いとは、地主麦畑収穫手伝零細農民が、手間賃のほかに、1割ほど残され落ち穂を拾う権利有するという風習であるが、1854年地主階級がこれを廃止しよう運動始め2年間の論議の末、収穫終わった後に行うこと、農婦子供のみが行うこと、日没前までとすること、監視員付けことといった制限課され上で認められることになったミレーは、以前から取り組んでいた落穂拾い構図完成させてサロン臨んだ。畑には、拾うべき麦穂がほとんど落ちていない上、農婦脇の下破れ目見えるなど、農民貧しさ強調した内容となっている。この作品も、政治敏感なサロン議論巻き起こし保守派からは厳しく非難される一方左派からは農民美徳表したものと評価された。かつて『刈入れ人たちの休息』を賞賛した批評家ポール・ド・サン=ヴィクトルは、今度ミレー批判する側に回ったこの年、第6子(二男シャルル生まれたまた、この年ミレーは、ボストン出身美術収集家トマス・ゴールド・アップルトン(英語版)の注文を受け、『晩鐘』を制作した。しかし、アップルトン引取りに来なかったため、1860年1000フラン売却している。ミレーによれば、これは、祖母思い出をもとに描いた作品である。バルビゾンの隣に広がるシャイイの平原鳴り響く晩鐘合図に、農民夫婦が手を休め、「主の御使い」から始まる祈り捧げる場面である。 1858年ローマ法王特別列車のために、ミレーに『無原罪の御宿り』の注文があった。ミレーはこれに応じて作品納めたが、法王庁枢機卿らの期待していたものとは違い片隅追いやられてしまったようである。 1859年サロンでは、『死と木こり』が落選し、『牛に牧草食べさせる農婦』のみが入選した作家デュマや『ガゼット・デ・ボザール』誌はミレー落選作を擁護したが、従来支持してきたテオフィル・ゴーティエ批判回り詩人シャルル・ボードレール酷評した1853年サロン得た無鑑査資格喪失した。 『仕事出かける人』1851-53年。油彩キャンバス、55.9 × 45.7 cmシンシナティ美術館。 『刈入れ人たちの休息ルツボアズ)』1851-53年。油彩キャンバス、67.3 × 119.7 cmボストン美術館1853年サロン入選。 『羊の毛を刈る女』1852-53年。油彩キャンバス、40.7 × 24.8 cmボストン美術館。 『クーザン』1854-73年。油彩キャンバス、73.2 × 92.4 cmランス美術館。 『接ぎ木をする農夫1855年油彩キャンバス81 × 100 cmノイエ・ピナコテーク1855年サロン入選。 『パンを焼く農婦』1853-54年。油彩キャンバス55 × 46 cmクレラー・ミュラー美術館。 『落穂拾い1857年油彩キャンバス、83.5 × 110 cmオルセー美術館1857年サロン入選。 『晩鐘』1857-59年。油彩キャンバス、55.5 × 66 cmオルセー美術館1867年万博出展。 『死と木こり』1858-59年。油彩キャンバス77 × 100 cmニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館1859年サロン落選

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