美術収集
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ポールは以前より美術や慈善活動に興味を持っており、後に父の資産の相続や、夫人との結婚などによってその熱をより強くした。1937年、父アンドリューがワシントンD.C.にナショナル・ギャラリー(西館)を建造したが、それから間もなく死去した。ポールはこの美術館とその所蔵品115点を国に寄贈し、自身はその運営委員会に所属し、館長も2度務めている。またその後も自身とレイチェルが美術品を寄贈し続けており、その数は1000点以上に及ぶ。 1936年、ポールはジョージ・スタッブスの「パンプキンと牧童(原題: Pumpkin with a Stable Lad)」という作品を購入した。自身が初めて購入したイギリス絵画として以後もいたく気に入り、生涯手放さなかった。それ以降イギリスの美術に注目し、イギリス芸術の専門家であるバジル・テイラーの助力のもとで、1950年代から1960年代中頃にかけて、多数の作品を手に入れた。この動きについて、ロンドンで画商を営んでいたジェフリー・アグニューという人物が「あのアメリカ人が、イギリス人に自分たちの美術の価値を再認識させた」との言を残している。 その後、ポールは自身の集めた絵画や珍しい書籍などをイェール大学に寄贈し、それを収めるための博物館も建設した。ポールは自身の名前を美術館名につけることを避け、イギリス美術を収蔵したことを強調させるために「イギリス美術のためのイェールセンター(Yale Center for British Art)」という名を付けさせた。同美術館は、イェール大学アートギャラリーと同じルイス・I・カーンの設計により手がけられている。なお、母校イェール大学とは美術館の寄贈に留まらず、様々な支援を行っている。学舎の寄贈はその代表的なもので、イェール大学の数あるキャンパスの中でも、エズラスタイルズカレッジ(Ezra Stiles College)とモースカレッジ(Morse College)は、ポールの寄付を基に建てられたものであった。これらの施設拡充により、イェール大学は男女共学校になっている。寄宿寮も12棟を建設し、そこで生活する学生への給食も提供した。 一方でロンドンには同館の姉妹館として「イギリス美術研究のためのポールメロンセンター(Paul Mellon Centre for Studies in British Art)」という名の研究施設を建設している。これ以外の主な博物館建設に、バージニア州リッチモンドに建設したバージニア美術館(Virginia Museum of Fine Arts)がある。
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美術収集
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「アルベール・オーリエ」の記事における「美術収集」の解説
オーリエが生前収集していたゴッホの作品の大部分は、ヘレン・クレラー・ミュラーが取得し、現在クレラー・ミュラー美術館(オランダ・オッテルロー)に収蔵されている。コレクションのうちエミール・ベルナールやオーリエ自身の作品は、1960年にパリで展覧された。
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美術収集
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「アントワーヌ・ド・グランヴェル」の記事における「美術収集」の解説
グランヴェルは、ティツィアーノ、レオーネ・レオーニといったハプスブルク家のパトロンが好んだ芸術家作品を集めた、有名なコレクションを所有していた。これには、父ニコラから受け継いだ目を見張る収集品同様、ピーテル・ブリューゲルの作品数点が含まれていた。ブリューゲルの友で、彫刻家のジャック・ジョンケリンク(en)は、ブリュッセルにあるグランヴェルの邸宅内に工房を持っていた。南部ネーデルラント時代に、グランヴェルはアントニス・モルを発掘し、彼をマドリードの宮廷へ紹介した。またグランヴェルはジャンボローニャの後援を行い、彼の初めてのイタリア旅行をお膳立てした。グランヴェルの死によって収集品は甥が相続したが、皇帝ルドルフ2世が優れた作品を売るよう圧力をかけた。現在、これらコレクションの多くはウィーンかマドリードにある。またグランヴェルは、壮大な図書館を所有しており、現在一部がブザンソンに残っている。
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美術収集
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1875年に、父と姉(妹)とともにドイツからイタリアにかけて旅し、オールド・マスターの美術品を収集しながら、美術を学んだ。 本格的に美術収集を始めたのは、1905年からである。その収集品は、ラスムス・メイエル・コレクションとして知られ、ヨハン・クリスチャン・ダールからエドヴァルド・ムンクまで、重要な作品を収めている。テオドール・キッテルセン、イェールハルド・ムンテなども含まれている。 コレクションは、2人の子供らによってベルゲン美術館に寄贈され、1924年、そのための展示館が建設された。現在はコーデー・ベルゲン美術館の1館(コーデー3)となっている。
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美術収集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 10:26 UTC 版)
山本は佐伯祐三の油彩絵を始めとする近代美術コレクションで知られている。 東京での学生時代に同居した実兄の影響で美術品に興味を抱く。書画から入り、1922年の洋行後は西洋画にも関心を広めた。佐伯を最初に評価したのは山本とされ、1932年から1933年頃に額縁商が持ち込んだ佐伯の絵に惹かれて、1935年ごろの展覧会では全品を買い取り、1937年に遺作展を開いた。この遺作展に際しては『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三畫集』(座右宝刊行会)を刊行した。ただし、コレクションのうち約100点は戦災で失った。山本のコレクションについて、橋爪紳也は「東洋の書と佐伯祐三やモディリアーニなどの洋画を結びつけた個性尊重の芸術観」を魅力と述べている。山本は、コレクションにはコレクターの個性が必要という主張を書き残した。 また、単なるコレクターではなく収集品を広く公開することを望み、東京帝国大学美術史専攻の学生が研究旅行として訪問するほどだった。美術館建設を志したが、戦争の影響もあって生前は果せなかった。遺族から大阪市に佐伯祐三作品が寄贈されたことを契機に美術館建設が構想され、2022年2月に大阪中之島美術館が開館した。
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