東京での学生時代
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1926年(大正15年)3月、通常は5年間通う旧制中学校を4年で修了し、入学試験に成績3番で合格した敦は第一高等学校文科甲類に4月から入学する。京城中学時代の友人によると、第一高等学校入学のお祝いとして大臣か大政治家になることを期待すると敦に手紙を送ると、そのようなものは偉いとは思わないし、なろうとも思っていないという主旨の返信が来たという。 一高入学後は寮に入り、のちにニーチェ研究者となる氷上英廣と知り合うきっかけとなった。氷上によれば、敦にカフカを奨めたのは氷上であったとされるが、その逆であるという説もある。1927年(昭和2年)の春には伊豆下田を旅し、耽美的な習作「下田の女」の題材となった。 夏休みに父のいる大連に帰省中肋膜炎に罹ったため1年間休学となった。このときの療養生活中に「病気になった時のこと」という習作断片が書かれた。『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」は11月に掲載され、これが活字となった初めての作品となった。 19歳となる1928年(昭和3年)4月に寮を出て、伯父・関翊一家が暮らす渋谷町道玄坂上の広い敷地内の弁護士・岡本武尚邸(岡本貫一の養子)の別棟に寄寓した。その岡本家の文学好きの息子・武夫(一高で高見順の同級生)と親交を結んだ縁で、のちに英米文学の翻訳者となる田中西二郎と知り合った。 また、同じく岡本邸に寄寓していた日本女子大学に通う2人の従妹・褧子(あやこ)と美恵子(叔父・比多吉の娘)のうち、敦は2歳年下の褧子(英文科)と特に親しくなり、彼女の卒業論文(テーマはユージン・オニール)作成の手伝いをしたりした。この年も『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載された。 1929年(昭和4年)4月に文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加する。この年の夏に岡本邸を出て、芝の同潤会アパートに移った。6月には『校友会雑誌』に「巡査の居る風景」「蕨・竹・老人」を「短篇二つ」として発表した。秋には氷上英廣、吉田精一、釘本久春らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)を創刊するが、敦はこの同人誌に一度も執筆せず、翌1月『校友会雑誌』の方に「D市七月叙景(一)」を発表した。 第一高等学校を卒業後、1930年(昭和5年)4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学する。友人らは英語力の高い敦は英文科に進むものだと思っていたため、国文学科を選んだことに驚いたという。この年の3月には、三つ子の生き残りだった異母妹・睦子が4歳で病死し、6月には、敦の才能を一番買っていた伯父・斗南が亡くなった。伯父の死を看取ったことで、狷介で彷徨的だった伯父と類似する自身の気質を分析する手記的作品「斗南先生」が、のちに書かれることになる。 大学時代には、文学発表活動への関与はあまりなく、友人・釘本久春の紹介で英国大使館駐在サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を10月から約1年間務めながら、ダンスホールや麻雀荘に入り浸る生活を送り、乗馬にも凝っていた。 1931年(昭和6年)の夏休みには天野宗歩の全棋譜(『将棋精選』)を読み上げ友人を驚かせたり、同年3月に麻雀荘(一高時代の寮友・伊庭一雄の姉の経営する店)で知り合った同年齢の店員・橋本タカ(故郷は愛知県)に会いに行く旅費稼ぎのため、下宿に友人らを集めレコードの売り立て会を開いたりしたこともあった。またこの夏には、浅草レビュー小屋の踊り子たちを組織して台湾興行を計画していたとも伝えられる。 文学活動を休止していたようにみえるこの時期ではあったが、一方で、永井荷風、谷崎潤一郎、正岡子規、上田敏、森鷗外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中した。そしてポーやボードレール、ワイルドなど欧州の耽美派を概観しつつ近代日本で自然主義派に対抗していた耽美派の谷崎を論じた「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた。 1931年(昭和6年)10月には、大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町大字上馬の借家で父と継母コウと同居するようになった。1932年(昭和7年)には、前年知り合った橋本タカとの結婚(入籍)を考えるようになった。しかし、タカの叔母の反対や中島家の反対もあり、しばらく辛抱強い説得が続いた。そして父から正式な結婚は大学卒業後にしろと言われため、この時点では婚姻届は出してはいない。 この年の8月、就職の相談をするため旅順にいる関東庁外事課長の叔父・中島比多吉を訪ねるかたわら、大連などの南満州、天津、北平(北京)などの北支(中国北部)を旅行し、久しぶりに母校の京城中学にも立ち寄った。中国を舞台にした未完の長編草稿「北方行」の執筆準備(現地取材)は、このころに行われていたのではないかと推察されている。
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