斗南先生
斗南先生
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『斗南先生』(となんせんせい)は、中島敦の短編小説。全7章から成る。中島が親族の中で最も強く影響を受けた伯父の斗南(中島端)の晩年を、似通う気質を持つ甥の視点から活写した私記的作品である[1][2][3][4]。
注釈
- ^ この日付については、筑摩書房版の第二次『中島敦全集 第1巻』の郡司勝義による解題では「1月28日」となっていて(誤記の可能性)、同じく郡司編集の年譜の中では「1月23日」と書かれているが[12][6]、それ以降出版された全集の年譜などでは「1月23日」となっている[13][14]。
- ^ 羅振玉(1866年-1940年)は、清朝末期から満州国期にかけて活躍した中国の学者。金石文・甲骨文字の研究家[22]。羅振玉は上海で1896年から1900年まで「東文学社」という日本語学校を運営していた[23]。辛亥革命の後、弟子の王国維とともに1912年から1919年まで京都に滞在して多くの日本人学者と交流した[23][24]。1932年の満州国成立後は満州政府に招かれて参議府参議・監察院長の要職を歴任した[24]。
- ^ 豊陽館は、上海最大の日本人街だった呉淞路(現・上海市虹口区)に存在した日本旅館で、1894年に開業された[23]。
- ^ 「支那」は江戸期から戦前まで、広く「中国」を意味する語として日本で使用されていた言葉[23]。その語源は英語の「China」と同様、「秦」である[23]。
- ^ 大山は霊山として古くから伝わる山で、遅くとも縄文時代後期には山岳信仰の対象となっていた[23]。式内社である阿夫利神社が鎮座している[23]。
- ^ 「斗南」は、唐代の狄仁傑が「北斗より南、狄仁傑にまさる賢人はいない」と敬われたことにちなんで、天下の賢人をさす言葉だが、中島端はそこに自ら「狂夫」と付けた[23]。
- ^ 中島綽軒の長女の
婉 の娘である田中順子(長根翠の姉)によると、「八尾の従姉」は、綽軒の末娘・吉村彌生(順子の叔母)だと述べているが[41]、吉村彌生当人の証言では、八尾にいた姉の春中のことだと述べている[39]。ちなみに、彌生は10歳から20歳まで久喜市の中島撫山の家で同居し、斗南に教育されたという[39]。 - ^ 『日本外交史』は、開国以来の日本の外交政策の失敗を批判する内容で、安政条約、慶応の改税約書、岩倉使節団の欧米交渉、井上馨の条約改正案、大隈重信の弥縫策などが槍玉に挙げられている[1]。
- ^ この小説『野路乃村雨』の中では、登場人物の1人が「馬琴等は支那小説の奴隷ダ、今の小説家やつぱり西洋小説家の奴隷ダ」という小説論を述べる場面もある[1]。
- ^ 文求堂は中国古書の専門書店で、中島家と縁つづきであった[24]。
- ^ 中国分割が加速し始めたのは1895年(明治28年)の日清戦争後からで、それまでイギリスの独壇場であった中国内に、ドイツ・ロシア・フランスが日本とともに、中国領土の租借や勢力範囲画定に参加し、その後アメリカも加わって事実上の分捕り合戦は水面下で静かに進行していた[60]。
- ^ そうしたアジア主義の言論の代表として、樽井藤吉、近衛篤麿などがいた[58]。
出典
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- ^ 佐々木充「『弟子』――己を支えるもの」(『中島敦の文学』桜楓社、1973年6月20日)pp.312-330。郭玲玲 2015, p. 38に抜粋掲載
- ^ 「第十六章 中島敦ノート(六)――『南洋行』から『弟子』へ(2)」(『中島敦研究』渓水社、1998年12月)p.270。郭玲玲 2015, p. 38に抜粋掲載
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