土方久功とは? わかりやすく解説

土方久功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/07 06:08 UTC 版)

土方 久功
ひじかた ひさかつ
本名
誕生日 1900年7月13日
出生地 日本 東京府東京市(現在の東京都
死没年 (1977-01-11) 1977年1月11日(76歳没)
死没地 東京都
国籍 日本
芸術分野 彫刻家 民俗学者 画家
教育 東京美術学校(現在の東京芸術大学
代表作 『パラオ連作』、絵本『ぶたぶたくんのおかいもの』『おによりつよいおれまーい』
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土方 久功(ひじかた ひさかつ、1900年7月13日 - 1977年1月11日[1])は、日本の彫刻家民俗学者パラオなど広く南洋に取材し、民族学的資料を多く残すとともに、芸術作品のテーマとして作品を残した[1]

人物・来歴

パラオのコロールにおかれた南洋庁庁舎。

1900年(明治33年)7月13日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1]。父は陸軍砲兵大佐の土方久路、伯父は伯爵土方久元、母方の祖父は海軍大将・男爵柴山矢八築地小劇場の演出家・土方与志(本名は久敬)はいとこ甥に当たる[2]

旧制・学習院初等科、同中等科を経て、父の病気退職による経済的理由から1919年(大正8年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科に入学する[3]。三沢寛、林謙三小室達岡鹿之助、小泉清、山本丘人らが当時の同学に在籍した[2]。1924年(大正13年)、同学を卒業[4]。同年、土方与志が築地小劇場を設立、同劇場の「葡萄の房」章は久功がデザインしたものである[2]

1929年(昭和4年)、パラオに渡り[1]公学校(現地住民の初等教育学校)の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する[2]。1931年(昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島(現在のサタワル島)に渡り、7年間を同島で過ごす[2]。1939年(昭和14年)、パラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務する[2]。トラック諸島(現在のチューク諸島)、ポナペ島(現在のポンペイ島)、クサイ島(現在のコスラエ州)、ヤルート(現在のジャルート環礁)、サイパン島ロタ島を引き続き調査する[2]。1942年(昭和17年)、小説家の中島敦とともに帰国した[2]。同年、ボルネオ調査団に参加し、同年から日本が統治した北ボルネオを調査した[2]

1944年(昭和19年)、病を得て帰国、岐阜県可児郡土田村(現在の同県可児市土田)に疎開する[2]第二次世界大戦終了後、1949年(昭和24年)、東京都世田谷区に移転、彫刻家となる[2]

『サテワヌ島民話』(1953年)は、土方が文字を持たないサテワヌ島で民話を採録しローマ字表記と日本語対訳を収録したもの。彫刻家としての制作の傍ら、「非詩集ボロ」(1955年)「青蜥蜴の夢」(1956年)などの詩集も刊行。土方はまた、福音館書店の編集者松居直に是非にと請われて、1963年から1975年にかけて月刊絵本こどものともで計4冊の絵本を手掛けている[5]

1977年(昭和52年)1月11日、心不全で死去した[1][2]。満76歳没。

家族

ビブリオグラフィ

国立国会図書館蔵書[9]

  • 『ヤップ離島サテワヌ島の神と神事』、南洋群島文化協会、1940年
  • パラオの神話伝説』、大和書店、1942年
  • 『流木』、小山書店、1943年
  • 『太平洋圏 上』、編集太平洋協会、出版河出書房、1944年 - 太平洋圏学術叢書 3
  • 『東亜論叢』、編集・出版文求堂、1941年
  • 『文化の果にて』、竜星閣、1953年
  • 『サテワヌ島民話』、三省堂出版、1953年
  • 『山の上の火』、ハロルド・クーランダー / ウルフ・レスロー、岩波書店、1963年 - 岩波おはなしの本
  • 『現代のエスプリ 22 神話』、至文堂、1967年
  • 『流木=ミクロネシアの孤島にて』、未來社、1974年
  • 『覆刻サテワヌ島民話』、アルドオ、1975年
  • 『土方久功遺稿詩集』、草原社、1978年 - 草原叢書 第2集
  • 『青蜥蜴の夢』、土方敬子編、草原社、1982年 - 草原叢書 第8集
  • 『ミクロネシア=サテワヌ島民族誌』、校訂・解説須藤健一未來社、1984年
  • 『パラオの神話伝説』、三一書房、1985年
  • 『土方久功著作集』(全8巻)、三一書房、1990年 - 1993年
    • 1 パラオの社会と生活、2 パラオの神と信仰、3 パラオの神話と伝説
    • 4 サテワヌの神と社会、5 サテワヌの民話、6 青蜥蜴の夢 文化の果てにて
    • 7 流木 孤島に生きて、8 サテワヌ島日記 ノート
  • 『土方久功展』、世田谷美術館編・出版、1991年
こどものとも
  • 『おおきなかぬー』、共著大塚勇三福音館書店、1963年 (こどものとも世界昔ばなしの旅 18 2005年)マオリ族の昔話
  • 『ゆかいなさんぽ』、福音館書店、1965年(こどものともコレクション 1964-1972 1998年)
  • 『ぶたぶたくんのおかいもの』、福音館書店、1970年 (こどものとも傑作集 1985年)
  • 『おにより つよい おれまーい』、福音館書店、1975年 (こどものとも世界昔ばなしの旅 7 1997年)サトワヌ島民話

  1. ^ a b c d e 土方久功、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年1月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 「土方久功 年譜」、やしの実大学、2010年1月2日閲覧。
  3. ^ 『官報』第1998号、大正8年4月4日、p.116.
  4. ^ 『東京美術学校一覧 従大正12年至大正14年』東京美術学校、1925年、204頁。NDLJP:940892/109 
  5. ^ 松居直「土方久功の造型」『絵本・物語るよろこび』99-109ページ
  6. ^ 土方家・本田家系図清水久夫、国立民族学博物館調査報告89、2010-02-26
  7. ^ 書籍の紹介『土方久功日記』一般社団法人太平洋協会
  8. ^ 『土方久功著作集, 第3巻』三一書房, 1990、p272
  9. ^ OPAC NDL 検索結果、国立国会図書館、2010年1月2日閲覧。

参考文献

伝記

  • 岡谷公二『南海漂泊 土方久功伝』河出書房新社、1990年
  • 清水久夫『土方久功正伝』東宣出版、改訂版2023年。日記よる評伝

関連項目

外部リンク


土方久功

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中島敦」の記事における「土方久功」の解説

彫刻家画家民俗学者中島パラオ南洋庁赴任した際に知り合い意気投合した。土方久功は両親の死亡などで東京離れ1929年昭和4年)からパラオ南洋庁嘱託として木工図工教員の職につきなが島々遺物土器調査し南洋民俗学第一人者となった。土方久功の親戚には築地小劇場小山内薫とともに建設した演出家土方与志がいる。久功は築地小劇場開場の際にシンボルマーク葡萄の房をデザインした。与志の祖父土方久元の弟が久功の父親という関係(与志は、久功の伯父の孫)であるが与志は久功より年長で、中島父への手紙で久功のことを「土方与志氏の弟」と紹介していた。中島同様に甘党で、パンミルク紅茶ビスケット好物であったという。土方中島南洋暑さ湿気喘息が辛そうだった様子回想している。

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