戦前編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 17:29 UTC 版)
1958年(昭和33年)の東京。戦後すぐ三姉妹が立ち上げた生活総合雑誌「あなたの暮し」はベストセラーとなり、出版社は活気に溢れていた。そして姉妹の長女で社長の常子は、断られた原稿依頼先に自ら直接懇願しようと思いつき、事務所を飛び出し一目散に走り抜けていた。 遡ること28年の1930年(昭和5年)、発想豊かで行動的な10歳の少女・小橋常子、その妹で9歳の次女・鞠子、同じく妹で4歳の三女・美子は、父・竹蔵、母・君子と共に浜松で暮らしていた。しかし竹蔵は年末に結核にかかり、翌年には自宅内で隔離生活を送るほどに悪化する。常子のアイデアで、毎年楽しみにしていた家族との花見を実現できた竹蔵は、その夜常子に父の代わりをすることを約束させ、3日後に他界する。そして竹蔵の死後「とと姉ちゃん」として家族の日常を守る父の代わりを務めることを誓った常子は、4年の月日が経ち、女学生に成長する。 戸主となった常子は、父の役目を遂行出来ない現実にぶつかったり、父不在が原因で美子が傷つき悩むこともあったが、アイデアと努力で乗り切り家族の結束を固めていく。しかし、竹蔵の職場からの遺族支援金打ち切りが通告され、このままの生活を続けることは困難と判断した君子は、娘たちに自身の母・青柳滝子が健在であることを打ち明け、彼女の世話になろうと考えていると告げる。姉妹も賛成し、一家は東京・深川にある君子の実家「青柳商店」に身を寄せる。 滝子や青柳商店の人々に歓迎され、新たな生活を始めた小橋一家だったが、常子の将来を巡って君子と滝子は喧嘩となり、君子は娘たちを連れて再び家を出る。折しも住込み女中を募集していた隣家「森田屋」に雇用され、一家は森田屋の2階に間借りする。当初は、仕事に不慣れで怒鳴られてばかりだったが、次第に努力と心意気が認められるとともに森田家に受け入れられていく。一方、店の激務をこなしながら、常子と鞠子は東京の高等女学校の編入試験に合格。常子は学内で中田綾と出会い、再試験の勉強を教えてもらったことを機に友情が芽生える。また、店の配達途中に出会った星野武蔵を当初不審に思っていたが、空腹で倒れた彼を助けたことを機に親交を深めていく。 森田屋に移り住んで3か月後、滝子が孫たちを取り込もうとしていると君子は思い込み、母娘の溝は更に深くなる。同じ頃、竹蔵が生前、家族に内緒で滝子と君子の関係修復に動いていたと知った常子は、彼と同じく関係修復に奔走する。竹蔵の思いや、不仲が原因で美子が寂しい思いをしていたこと、更に滝子の愛情を知り気持ちが氷解した君子は、滝子を許し和解する。 高等女学校5年生になった常子は、担任教師・東堂チヨの教えに感銘を受ける。彼女の勧めで『青鞜』を読み、卒業後は男性並みに稼ぎたいと思うようになった常子は、実業家の仕事に興味を持ち練り歯磨きの開発と販売を試みるも、結局失敗に終わる。そして家計と、作家を目指す鞠子の大学進学のために、当時の女性として高給であるタイピストへの就職を決意する。 常子は猛勉強して鳥巣商事のタイピスト採用試験に臨み採用され、女学校卒業後は同社の浄書室に配属される。当初、責任者・早乙女朱美から、未熟さを理由に仕事を回してもらえず、他部署の男性社員の雑用を勝手に手伝うと阻害されていたが、上司に仕事の出来を高評されたことを機に彼女に認められ、タイピストの仕事を依頼されるようになる。入社から3週間後、初月給をもらった常子は、滝子に借りていた学費の一部を返し、家訓でありながらも家計の事情で中止されていた「月1回の家族での外出」を復活させる。 1年後の1938年(昭和13年)、常子は一人前のタイピストとして同僚たちから信頼を置かれるまでになり、武蔵とは週1回近況報告し合う友人関係が続く。鞠子は帝都女子大学に進学し、早稲田大学生たちとの文学研究に傾倒。裁縫が得意な高等女学生になった美子は、戸主として振る舞い家訓に囚われる常子に辟易するようになってゆき喧嘩が勃発し、2人は数か月に渡り険悪となる。常子は、家族を優先してばかりの自身に対する妹たちの気兼ねを鞠子から知らされ、複雑な思いの中、大阪行きが決まった武蔵から求婚される。嬉しい気持ちと裏腹に父との約束を気にして苦悩するが、早乙女からの応援と美子の心の成長を知ったことで家族を見守りたいと思い、武蔵に別れを告げる。
※この「戦前編」の解説は、「とと姉ちゃん」の解説の一部です。
「戦前編」を含む「とと姉ちゃん」の記事については、「とと姉ちゃん」の概要を参照ください。
戦前編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:49 UTC 版)
1913年4月28日、北海道旭川生まれ。小学校のときに応募した水彩画公募展の審査員であった上野山清貢にほめられたことを契機に画家を志す。1932年、北海道庁立永山農業学校(現北海道旭川農業高等学校)林学科を卒業して上川支庁林務課に勤務し、大雪山自然林の保護に携わる。1934年、上野山を頼って上京し、本郷と目白の絵画研究所に学ぶ。牧野虎雄にも師事。1939年3月、画壇の登竜門であった旺玄社展の最高賞『目白賞』を受賞。かねてよりポール・ゴーギャンのエッセイ『ノア・ノア』を読んで感激し、南洋への憧れを募らせていた武田は同年10月、南洋諸島に向け出発。サイパン島、パラオ、ヤップ離島のフララプ島を取材。パラオ滞在中に南洋庁に勤めていた土方久功と知り合い、その援助により1940年5月、コロールの昌南倶楽部で個展を開催。1941年4月に帰国。翌年旭川に生活拠点を置く。この7月、南洋美術協会第一回展に油彩画《フらラップ島麗日》《樹下雑語》を出品、9月には銀座・紀伊国屋ギャラリーで『武田範芳南洋作品展』を開催した。
※この「戦前編」の解説は、「武田範芳」の解説の一部です。
「戦前編」を含む「武田範芳」の記事については、「武田範芳」の概要を参照ください。
- 戦前編のページへのリンク