戦前期の路面電車網整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 07:14 UTC 版)
「市営モンロー主義」の記事における「戦前期の路面電車網整備」の解説
1903年、大阪市は同市が整備した築港埋立地の発展促進のために日本で初めて公営の路面電車(大阪市電)を開業した。これが好調で事業として有望であることから、続いて市街地への路線の拡張を計画した。この頃、いくつかの民間資本が市街地への路面電車の敷設特許を出願していたが、第2代大阪市長の鶴原定吉が「市街鉄道のような市民生活に必要な交通機関は、利害を標準に査定されるものではなく、私人や営利会社に運営を委ねるべきではない」と市会で主張し、以後も路面電車は公営で建設・運営されることになった。この方針には、当時の大阪では道路・橋梁などの社会資本が未整備で、都市計画事業の実施に交通事業の収益を財源とする必要があった、という背景があり、実際に大阪市では江戸時代以来の狭隘かつ煩雑な市街地の区画整理・道路拡幅・鉄橋架設などが、路面電車の敷設と同時に計画的に実施されている。 この市営交通事業による市内交通の独占政策は、その後の電鉄ブームなどで計画された私鉄各社による大阪市内中心部への乗り入れ計画に対して、最も厳しい形で適用された。大阪市は私鉄各社による市内中心部乗り入れ線の免許・特許申請に対し、都市計画法などを論拠としてすべて反対の立場を表明し続けたばかりでなく、市電の開業以前の時点で既に各社が保有していた市内中心部への路線免許・特許についても返納あるいは失効させて排除を図った。この過程では、一旦は市電への私鉄車両の乗り入れを認める姿勢を示した上で、各社が取得済みの市内中心部への免許・特許を返納させ、その後乗り入れを認めない姿勢に転換することで私鉄各社を閉め出す、といった手法も採用された。こうして、1910年代の終わりまでには市内中心部からの計画線を含めた私鉄線の徹底的な排除が図られた。国鉄は当時、大阪周辺の交通網整備にはほとんど関心がないうえ、当時の大阪市域も発展途上であり通勤需要も少なく、さらに五私鉄疑獄事件による民鉄への不信感などから、市民からも大阪市による交通網の一元化政策は一定の支持を受けていた[要出典]。
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