戦前期の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 17:47 UTC 版)
佐野退任後の秋田県立図書館は、日露戦争による一時的な巡回文庫の停止があったものの1907年(明治40年)には復活し、明治期末まで蔵書5万冊の規模で推移し、書庫の増築などを重ねながら運営されてきたが、1914年(大正3年)、大正天皇即位記念事業として記念会館、記念図書館の建設が県会で可決され、1919年(大正8年)、秋田市東根小屋町にルネッサンス風の新図書館が開館した。この新図書館では一般閲覧室の他に児童閲覧室と婦人閲覧室が設けられ、社会教育活動の拠点としての性格が意識されることとなった。また、前述の通り1923年(大正12年)には郡制廃止により北秋田、山本、仙北、南秋田、由利、平鹿の各図書館が当館の分館となったほか、郡立図書館のなかった鹿角郡では花輪町にあった郡公会堂を県に移管し花輪分館とした(後の鹿角市立花輪図書館)ことで、県内全郡への公立図書館の設置をみた。 1924年(大正13年)県社会教育主事であった吉村定吉が兼任館長に就任する(1926年から専任館長)と、意欲的な施策が次々と推進されていくことになる。具体的には新聞閲覧室の設置、講堂の一般利用の開放、『秋田図書館報』の発刊、研究室の設置などが挙げられ、中でも研究室は、その利用対象は当時の検定試験独学者を主としたものであったものの、研究室利用者は備え付けの図書を自由に利用でき、学習を支援するために5人の研究指導者を置くなど、きわめて画期的な事業であった。また吉村は1925年(大正14年)、「秋田考古会」を設立し、秋田県の考古学および近代史研究の端緒を開くとともに、『秋田考古会誌』を発行した。吉村は1929年(昭和4年)までの約6年間、当館の館長を務めた。 一方で昭和期に入ると、国内図書館界の官僚化による活動の変質、そして昭和恐慌の時勢のもと、当館の活動もその影響を受けていくことになる。1931年(昭和6年)県は分館をそれぞれの所在地の町に移管することを決定すると、翌1932年(昭和7年)にこれらは廃止され、全県的なサービス網が分断されてしまった。その一方で、図書館統制強化が打ち出された改正図書館令(1933年制定)のもと、当館は秋田県の中央図書館として位置づけられることとなった。かねてより行われてきた巡回文庫の実施も影響の例外でなく、1932年新設の県社会教育課の職掌に「図書館及巡回文庫ニ関スル事項」の定めがあり、この時点で巡回文庫は図書館事業というよりも社会教育施策の一環として認識されていたとされ、1935年(昭和10年)新たに交付された「秋田県立秋田図書館規則」では名称を「貸出文庫」と変え、地域教化を目指し学校や青年団なども対象に含めた読書普及の施策に変容していったのである。
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