分館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/04 14:18 UTC 版)
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分館(ぶんかん)は、本館から離れた場所に、本館とは別につくられた施設のこと。
本館の建物と隣接した場所に造られるものは、別館(アネックス、Annex)あるいは新館といい、それぞれ区別される。
図書館の分館
図書館の分館(branch library)は、図書館の中枢的機能を有する本館に対し、本館の外部に別に設けられた図書館施設のことである。館内には分館固有の図書館資料が所蔵され、単独で小規模な独立した図書館としての機能を有するほか、本館や他の分館の行うサービスを取り次ぐ中継拠点となる。
分館は、公共図書館であれば地域ごと、大学図書館であればキャンパスごとというように、地理的に本館から離れた場所で、設置場所の地域住民、設置キャンパスの教員・学生を対象とするサービスを担っており、所蔵資料の閲覧・貸出やレファレンスなどを行う。
分館は相対的に小規模であるため所蔵資料は少なく、レファレンスも簡易なものに限られるが、本館と分館の間には密接なネットワークが構築されており、本館や他の分館の所蔵する図書館資料の取り寄せ、レファレンスの回付などを通じて図書館組織全体のサービスを提供する。
本館の側からみれば、分館は本館のサービス網を本館から離れた場所に広げる窓口として位置付けられる。例えば、地方公共団体(自治体)が設置主体となっている図書館の場合、自治体の広い領域に対する図書館サービスを1つの本館では十分にカバーすることができないので、「地区館」と呼ばれる分館を自治体内に張り巡らせたサービス網の構築は図書館サービスの普及に不可欠と考えられる。
公民館図書室に分館の機能を持たせたり、公民館窓口において予約資料の貸出・返却が行える自治体もみられる。
また、公共図書館にとっては、分館は図書館の本館がカバーすることができない地域、地区に対するサービス拠点として重要である。特に日本の図書館界では、1960年代の日野市立図書館が、本館機能を持つ中央図書館の建設を後回しにして、地域に密着した小図書館の建設に予算を優先して投入した結果、幅広い図書館利用の掘り起こしに成功した事例はそのモデルケースとして有名である。
関連項目
分館(旧奈良家住宅)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/29 10:05 UTC 版)
「秋田県立博物館」の記事における「分館(旧奈良家住宅)」の解説
本館から男潟を挟んで1km北方にある。主屋は建築年代が明らかで当初の特徴をよく残していることから、1965年に国の重要文化財に指定されている。また、周囲には明治から大正にかけて建てられた付属屋も保存されている。 奈良家は弘治年間(1555年~1558年)に大和国の生駒山麓小泉村から現在の潟上市昭和豊川に移住し、江戸時代には約10km南の現在の場所に移転したものと伝えられている。現在の旧奈良邸住宅は宝暦年間(1751~1763年)に9代善正(善兵衛)によって建てられた。このときの、棟梁は土崎の間杉五郎八で、3年の歳月と銀70貫を費やしたといわれている。建物の両端が前面に突き出す形は両中門造りとよばれ、秋田県中央海岸部の代表的な農家建築である。奈良家の場合は正面左側が上手の中門(座敷中門)で右が下手の中門(厩中門)となっている。両中門と母屋を含む面積は424.05平方メートルである。秋田県内屈指の豪農としての格式の高さを知ることができる。 また、味噌蔵、座敷蔵、文庫蔵、南北米倉、明治天皇北野小休所(移築)、和風住宅など、明治から昭和にかけて建設された奈良家の付属施設もある。これらは、2006年(平成18年)3月に登録有形文化財に登録された。 奈良家に菅江真澄らの文人も滞在していた。そのときに、菅江真澄は久保田藩の藩主佐竹義和の家臣と会い久保田藩と縁ができた。その後、彼は藩主佐竹義和と拝謁した際に、出羽6郡の地誌をつくってほしいと頼まれた。それまで、ずっと漂泊していた彼は、その後は死ぬまで久保田藩に滞在するようになる。
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