明治から昭和にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 23:35 UTC 版)
「茶屋町 (大阪市)」の記事における「明治から昭和にかけて」の解説
1875年(明治8年)には西成郡第三区第八番小学校(のちの梅田東小学校)が開校している。1877年(明治10年)頃に西天満にあった綱敷天神社御旅所が土地の寄進を受けて当地に遷座した。 1889年(明治22年)には、現在の梅田東コミュニティ会館付近に高さ39m、9階建ての「凌雲閣」が建設された。1、2階は五角形、3階より上は八角錘台形で、一番上は丸屋根の付いた展望台となっていた楼閣で、「キタの九階」と呼ばれた。「ミナミの五階」と呼ばれた「眺望閣」とともに大阪のシンボルタワーとなったが昭和初期に取り壊されている。 1897年(明治30年)に北野村は大阪市へ編入され大阪市北区大字北野となり、1900年(明治33年)に大字北野は18町に分割され、その一つの町名として北野茶屋町が誕生した。 1924年(大正13年)より北野の冠称が外れて茶屋町となり、一部が鶴野町・芝田町・小深町に分離、北野西之町・本庄西権現町の各一部を編入、1978年(昭和53年)に一部が角田町として分離、鶴野町・浜崎町・豊宮町・東和町・芝田町・小深町のそれぞれ一部を編入している。このように、現在の町域は旧:西成郡本庄村や同郡南浜村といった北野村以外の一部地域を含んでおり、後述の再開発地域の大半(NU茶屋町以外)もこれらの地域に該当する。 昭和時代末期には都心部のドーナツ化現象が進み、住居人口が減少して就学人口も減少。梅田東小学校は1989年(平成元年)3月に廃校し、新設された大阪北小学校へ統合される。跡地の校舎施設はそのまま大阪市梅田東学習ルーム(生涯学習施設)となったが、2011年(平成23年)3月31日をもって閉館となった。
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