茶屋町
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茶屋町
〒930-0115 富山県富山市茶屋町
〒923-0024 石川県小松市茶屋町
〒602-8053 京都府京都市上京区茶屋町
〒605-0931 京都府京都市東山区茶屋町
〒530-0013 大阪府大阪市北区茶屋町
〒640-8334 和歌山県和歌山市茶屋町
〒710-1101 岡山県倉敷市茶屋町
〒805-0014 福岡県北九州市八幡東区茶屋町
茶屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:25 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動茶屋町(ちゃやまち、ちゃやちょう)
- 茶屋を中心に栄えた町(原義)。
- ちゃやまち
- 茶屋町 (青森市) - 青森県青森市の地区
- 上茶屋町 - 山形県新庄市十日町の地区
- 茶屋町 (富山市) -富山県富山市の地区
- 茶屋町 (名古屋市)
- 茶屋町 (四日市市) -三重県四日市市の地区
- 茶屋町 (大阪市) - 大阪府大阪市北区の町丁
- 茶屋町駅 (大阪府) - 上記にあった駅
- 茶屋町 (和歌山市) - 和歌山県和歌山市の字
- 茶屋町地区 - 岡山県倉敷市の茶屋町支所管轄エリア
- 茶屋町 - 上記地区にある大字
- 茶屋町早沖 - 上記地区にある大字
- 茶屋町駅 - 上記にある瀬戸大橋線の駅
- 倉敷市立茶屋町小学校 - 上記にある小学校
- 茶屋町 (北九州市) -福岡県北九州市八幡東区の町丁
- 茶屋町勝呂 - 日本の漫画家
- 神奈川県茅ケ崎市南湖1丁目、並びに隣接の十間坂3丁目にある神奈川中央交通のバス停。
- ちゃやちょう
関連項目
- 「茶屋町」で始まるページの一覧
- タイトルに「茶屋町」を含むページの一覧
- 茶屋 (曖昧さ回避)、茶屋川(複数の川名)
- 茶町
- 茶木
茶屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:31 UTC 版)
茶屋町地域の中心市街地を要し、地域の南部・西部を占める。倉敷編入以前の町制時代は帯江新田と名乗った。それ以前は、帯江新田(帯江沖新田)・添新田・鶴崎新田に分かれる。大部分は帯江沖新田で、東北部の南北に長い区域が添新田、南端の逆三角形のような形をした区域が鶴崎新田であり、残る区域が帯江沖新田である。 添新田は、帯江沖新田と高須賀新田(現在豊洲地区の高須賀)の間にあたり、前述のように南北に長い。前潟新田(現在の早島町前潟)の干拓造成により、汐入川が開削された。これにより干潟の排水が良くなり高須賀寄りに洲ができ、元禄3年にこれを羽島村(現在帯江地区の羽島)西山武右衛門が帯江領主に願い出て、備前国和気郡稲坪村(現在の和気町)の清右衛門が開発を請け負い、新田約30町が造成された。開墾後、長細い当地は東西に分割されさらに細長くなった。西部は早島知行所領となり、高須賀村の枝村として高須賀添新田(約11町)となる。一方、東部は帯江知行所領となり、添新田(約18町)を名乗った。その後に帯江領添新田の南部、汐入川東岸一帯に町並みが生まれるが、これは宝永元年から開始された帯江沖新田・早島沖新田の干拓工事の基地として汐入川の河港のが作られ、港を中心としてその周辺に出来た港町である。 宝永元年から添新田の東側、早島の南側にあたる海域が干拓され、同4年に完成。沖新田と呼ばれ、境川用水を境に南北に分割され、北側は早島領として早島沖新田村、南側は帯江領となり帯江沖新田村となった。帯江側の開発主は羽島村の西山武右衛門・二日市村(現在の帯江地区の二日市)の平松万右衛門・加須山村(現在の帯江地区の加須山)の尾崎太右衛門・亀山村(現在の帯江地区の亀山)の亀山九郎右衛門であった。しかし、用水不足のため、新田完成後約10年間は全くの無収穫であった。享保14年検地、同16年より年貢上納。延享2年より免状あり、畝数91町余りであった。干潟に面していたため、その所属および使用や排水についてしばしば周辺他村のと総論が発生している。 両沖新田が完成すると、岡山から早島を経て当地を通り、天城を経て下津井へと通じる金比羅往来が開通。添新田の川港町は、山陽路と四国を結ぶ海陸交通の中継の要地となった。その中に天城池田氏が岡山と天城間の往来時の休憩所として利用する茶屋があったことから一帯の町並みを通称茶屋町(ちゃやまち)と呼ぶようになったという(諸説あり。「地名の由来」の章を参照)。現桜橋の北側に金毘羅大権現(金刀比羅神社)があるが、これがその茶屋町とよばれた町並みの守護神として祀られたものである。 文政7年、当地の南沖にあたる海域が干拓され鶴崎新田が開墾される。前年より当地の東沖合の干拓が開始されており、のち52年をかけて広大な興除新田が造成されることとなる。鶴崎新田村は、そのうちの備前国児島郡西畦村の枝村となる。現在の茶屋町町域の中で唯一の都宇郡・都窪郡域外となり、また備前国域となる。 明治3年11月、帯江沖新田村は帯江新田村に改称。同22年には帯江新田・帯江新田両村の合併による江島村を経て、明治29年に町制を施行により茶屋町(ちゃやちょう)に改称。また添新田は高須賀村編入を経て、豊洲村となる。鶴崎新田村は、児島郡西畦村編入を経て興除村となる。 昭和22年1月に興除村より旧鶴崎村域を、同26年3月に豊洲村の高須賀の内の旧添新田分を、それぞれ茶屋町へ移管、同町帯江新田の一部とした。 昭和47年5月1日の倉敷市への編入合併を期に、帯江新田から茶屋町(ちゃやまち)へ改称した。
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