帯江地区
加須山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 21:17 UTC 版)
帯江エリアの中央部に位置する。加須山丘陵の南端部とその東麓の平地からなる。エリア内の他地域同様、平地部の大半はかつては吉備の穴海であり、干拓により陸地化、新田地帯となった。 近世初頭にはこの付近の海域は葦原や干潟が広がり、現在の加須山丘陵とその南の高坪山(72.6メートル、現在の有城)の海峡である小瀬戸は、歩いて渡れるほどであったといわれる。元和4年、この地方を領有していた庭瀬藩主の戸川達安が帯江村(二日市)の庄屋であった庄左衛門・伝右衛門ら兄弟3人に干拓を指示。5町6反余りの新田を造成した。さらに中新田(当新田)、小瀬戸新田と干拓が続いたので最初の新田は古新田と呼ばれるようになった。寛永17年に小瀬戸新田が完成すると、当時汐入川となっていた現在の倉敷川の流路も定まってきたとされる。慶安3年に検地が行われ、丘陵南端周辺と開墾された新田を合わせて二日市村(帯江村)から独立し、都宇郡(正保年間に窪屋郡に移管)賀洲山村となり、帯江知行所の領地となった。村名は、加須山丘陵が周囲が海域の頃は賀洲(かしま)と呼ばれていたが、陸地化したので賀洲山(かしまやま、かすやま)と呼ばれるようになり、その丘陵の南端に位置することから丘陵の名から村名をとった。後に現在と同じ加須山の表記に変わる。幕末頃の加須山村の石高はおよそ457石。 明治期に周辺と合併し帯高村(のち帯江村)が成立したとき、当地に役場が設置された。現在も帯江小学校などがあり、帯江地域の中心的な地区となっている。 昭和期に当地を国道2号岡山バイパスが通過することになり、また倉敷市街と茶屋町とを結ぶ岡山県道74号線が国道2号と交差、交通の要衝となった。
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