平地部
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近世に大久保忠世・稲葉正勝によって改修された部分。現在の小田原城址公園及び、その近辺である。主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城である。佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。なお、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)に始められた大改修後のことである。本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出(うまだし)として機能した。建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。 明治初期に殆どの建物が取り壊されたが、本丸・二の丸・茶壺曲輪・馬屋曲輪は復元が進んでいる。鷹部曲輪には図書館・郷土文化館が置かれ、小峯曲輪は報徳二宮神社、屏風岩曲輪は遊園地となっている。御蔵米曲輪は球場となった後、一時的に駐車場となっていたが、現在復元整備中。弁財天曲輪は城址公園外の住宅地となっており、商工会館や旭丘高校が建つ。
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平地部
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「首都高速神奈川3号狩場線」の記事における「平地部」の解説
平地部はすべて高架構造であり、大半の区間は中村川上空を通過する。着工前の川幅は27 - 28 mほどあったが、本道路建設と同時に施工された護岸改修により22 mに縮小し、橋脚敷を確保した。中村川には関東大震災で被災し大正から昭和初期にかけて復旧された橋が十数本あったが、建設省や横浜市から受託し架け替えられた。沿道は市街化が進んでおり、中村川左岸にあたる上り線側の用途地域は商業地域、右岸は近隣商業地域で低層住宅が密集しているうえに、右岸側後方120 - 200 mにある高さ50 mの崖からの反射音も懸念された。横浜市立大学病院や横浜市立中村特別支援学校をはじめ特に静穏を必要とする施設も隣接していることから騒音対策への配慮が求められた。この区間は概ね東西に構築されており、日照阻害を防ぐため、防音壁は極力低く抑える必要がある。そこで、新幹線などで採用実績があり、1.5 mの従来型防音壁と同等の効果が得られる干渉型防音壁と、高架橋の二層構造部分では上層部下面に吸音板が設置された。 石川町JCTから山下町出口側は堀川筋高架橋、花之木出入口側は中村川筋高架橋と呼ばれ、このうち堀川筋高架橋は1983年に土木学会田中賞を受賞している
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