大正から昭和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 12:33 UTC 版)
茂憲の長男・上杉憲章は、英国のケンブリッジ大学に留学した。帰国後、宮内省御用掛となる。長男の定憲は大正8年(1919年)11月6日に8歳で、次男の資憲は大正4年(1915年)6月27日に生後9か月で早世したため、三男の隆憲が父の跡を継ぎ米沢上杉家の当主となった。五男の昭雄は憲章の実弟の米沢新田藩上杉家当主・上杉勝憲の養嗣子となり勝昭と改名した。旧米沢藩士の留学費用も提供したといわれ、その中の一人である中條精一郎は、山形県庁および山形県会議事堂の設計を行なっている。 上杉隆憲は、学習院で初等科から高等科まで学び、東京帝国大学仏文科を卒業。昭和15年(1940年)、徳川家正の次女敏子と結婚した。昭和19年(1944年)には米沢に移り、山形師範学校助教授となった。戦後、東京に戻り、東京都児童会館長、東京文化会館長などを務めた。昭和25年(1950年)、鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた旧伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡された。
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大正から昭和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 04:13 UTC 版)
大正8年(1919年)米沢市内は米沢大火に見舞われ、上杉神社・伯爵邸にも類焼した。現在の神社社殿は大正12年(1923年)に再建されたものであり、伯爵邸も大正14年(1925年)に再建され鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた。 昭和25年(1950年)伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡され、翌年より中央公民館として利用された。昭和54年(1979年)公民館から上杉記念館に改変され郷土料理の提供や資料の展示が行われている。
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大正から昭和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 10:05 UTC 版)
調査によって時期に若干の差はあるが、子型の女性名の比率は明治末期から昭和初期にかけ大きく伸び、第二次世界大戦を挟んだ1930年代から1940年代に80%超のピークとなったのち、減少に転じた。 明治安田生命により毎年調査されている名前ランキングでは、女性名では1913年から1964年まで連続して子型が1位だったが、1965年からは他の名が混ざり、1982年が子型の1位の最後となっている。1986年 - 1991年は上位10位から子型の名前が消えている。
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