大正から戦前
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神戸や大阪など人口の多い都市部に隣接した六甲山の開発は官民が競って争う場となった。また第二次世界大戦前から阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)と阪神電気鉄道は当時から敵対するライバル同士でありこの六甲山の開発事業もしのぎを削ることになる。後に阪急系となる六甲山ホテルが1929年(昭和4年)に六甲山初の本格ホテルとして開業し、1931年(昭和6年)に阪急系の六甲登山架空索道(ロープウェイ)が先行開業した。翌年の1932年(昭和7年)には阪神系の六甲越有馬鉄道(後の六甲摩耶鉄道、現在の六甲山観光)六甲ケーブル線が開通し、それにあわせるように1934年(昭和9年)に阪神系の六甲オリエンタルホテルが営業を開始し、私鉄大手2社による本格的な六甲山上への観光客の争奪戦が始まることになった。また六甲山上でのバス認可などでも両社の激しい攻防が繰り広げられた。 神戸市では1929年(昭和4年)民間からの鉄道やバスなど各種の開発要請のある中、市の背山一帯を「理想的の大公園と化する」計画をし、道路整備や公園の整備、山上には植物園や高山植物園などの開発計画を練っていた。明治から順次緑化整備が進められていた六甲山であるが1928年(昭和3年)の山火事や1938年(昭和13年)の阪神大水害における各地での甚大な山腹崩壊、さらには太平洋戦争の激化で再度荒廃の道を歩むことになる。 なお、1909年(明治42年)から1932年(昭和7年)にかけては大谷光瑞が六甲山麓の通称「岡本山」に建設した別邸である二楽荘があり、各施設内をつなぐための3本のケーブルカーまで設置された壮大かつ華麗な邸宅が存在していた。
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大正から戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
入谷の朝顔は消滅し団十郎朝顔も途絶えたが、渡辺は大正から昭和にかけての朝顔書や会報に「団十郎」という花名が散見されると述べている。2020年時点で、「団十郎」の名で販売される朝顔は蝉葉の大輪朝顔である事が多い。明治時代に一世を風靡した入谷の団十郎朝顔と、2020年現在販売されている蝉葉の大輪朝顔の「団十郎」は全く系統が異なる物である。蝉葉の大輪朝顔は明治末から大正期に掛けて朝顔愛好家によって作出され、昭和戦前期に人気となり発展した。蝉葉の大輪朝顔には大きく分けて青葉(通常の色の葉)と黄葉(葉緑素が少なく黄緑色の葉)の2つの系統がありそれぞれ青斑入蝉葉(略称:アフセ)と黄蝉葉(キセ)、黄斑入蝉葉(キフセ)と呼ばれる。青葉と黄葉の大輪朝顔はそれぞれ由来が異なる。次項からは大輪朝顔と朝顔会の歴史を含めて解説して行く。
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