映画と老ノ坂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 06:50 UTC 版)
大正から戦前にかけて、老ノ坂は京都の映画人に時代劇の恰好のロケ地として多用された。太秦から自動車で40分ほどで街道に到着できるという便利さもあり、天気の様子を見定めてから走っても十分に仕事ができたのである。 たいていのロケーションは「朝8時には撮影開始、終了は太陽が西山に落ちるまで」という習わしだったが、この老ノ坂だけは「朝は9時過ぎ、終わりは午後4時まで」を限度とした。その理由は、当時の農家は人糞を肥料に使っており、亀岡の農民らが空の肥桶を牛車に積んで京都へ肥汲みに行く、この牛車の行列が列をなして老ノ坂を通るのがちょうど朝の8時から8時半ごろで、この行列が通り終わるまではその光景と臭いでとても撮影はできない状態だったからである。 また肥汲みの牛車が桶を満タンにして亀岡へ引き上げるのが午後の4時半ごろからで、もし撮影隊がこの行列に出遭った場合は6時過ぎまで撮影ができなかった。満タンの牛車はバックなどしてくれず、「おいカツドウ屋、おんどら邪魔せんとけ!」と怒鳴られて、ロケ車をバックしたとたんに溝に脱輪して動きが取れず、夜9時ごろに、やっと撮影所に戻るというようなこともしばしばあったという。 こうした経験から老ノ坂のロケは4時半に切り上げというのが通り相場となり、「老ノ坂ロケ」との予定を見ると役者もスタッフも、朝は遅く終わりは早いと「貰うたようなもンや」(撮影所言葉で「頂き」とか「有難い」という意味)と喜んだという。
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