映画人にとは? わかりやすく解説

映画人に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 20:44 UTC 版)

淀川長治」の記事における「映画人に」の解説

日大入学のため1927年昭和2年)に上京した際、かねて投稿行っていた雑誌映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集見て編集部出向きそのまま採用され編集者として活動。しかし1929年昭和4年)に神戸実家戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務するその後知人を介して1933年昭和8年)にUAユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社入社する。なお、大阪支社勤務時代1936年昭和11年2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談成功している。その後淀川日本におけるチャップリン評論第一人者と言われるその後1938年昭和13年)に「モダン・タイムス封切に伴う宣伝体制強化受けて東京支社移りジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する1941年昭和16年12月日英開戦後アメリカ系映画会社閉鎖されると、1942年昭和17年)に東宝映画宣伝部就職。この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明出逢い2人生涯親友となったこの頃横浜市鶴見区馬場2丁目に家を構え晩年まで住んでいる。 1945年昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ政府系の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務するその後1947年昭和22年)に映画世界社(1961年昭和36年映画の友社と改称)に入社し雑誌映画の友』の編集携わり映画解説者映画評論家として活動開始。『映画の友時代部下には小森和子写真部長には有名なカメラマン早田雄二がいた。 なお、1951年昭和26年)に『映画の友』の仕事ハリウッド向かった淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリカン航空ボーイング377機内クラレンス・ブラウン監督邂逅し、機内ラウンジ話し込んだほか、ハリウッド滞在していた際には、アカデミー賞ノミネートされていた黒澤の「羅生門」の代理出席者として、授賞式代理人として招待された。

※この「映画人に」の解説は、「淀川長治」の解説の一部です。
「映画人に」を含む「淀川長治」の記事については、「淀川長治」の概要を参照ください。

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