映画人に
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日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねて投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。 その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。 1941年(昭和16年)12月の日英米開戦後にアメリカ系の映画会社が閉鎖されると、1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、2人は生涯の親友となった。この頃横浜市鶴見区馬場2丁目に家を構え、晩年まで住んでいる。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ政府系の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。その後、1947年(昭和22年)に映画世界社(1961年(昭和36年)映画の友社と改称)に入社し雑誌『映画の友』の編集に携わり、映画解説者・映画評論家として活動を開始。『映画の友』時代の部下には小森和子、写真部長には有名なカメラマン早田雄二がいた。 なお、1951年(昭和26年)に『映画の友』の仕事でハリウッドに向かった淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリカン航空のボーイング377の機内でクラレンス・ブラウン監督と邂逅し、機内のラウンジで話し込んだほか、ハリウッドに滞在していた際には、アカデミー賞にノミネートされていた黒澤の「羅生門」の代理出席者として、授賞式に代理人として招待された。
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