映画人との交流
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1933年6月、山中はマキノ時代の先輩だった滝沢英輔と親しくなり、滝沢を通じて松竹京都撮影所の監督だった井上金太郎が音頭を取って結成した「監督八人会」の一員に加えられた。監督八人会は、各社の時代劇映画の新鋭監督たちが何となく月一回位集まって飲み語るために結成された、さしずめ鯨飲クラブのような懇親会で、山中以外のメンバーは井上、滝沢、荒井良平、並木鏡太郎、松田定次、石田民三、秋山耕作だった。『鼠小僧次郎吉』撮影中の同年10月には、井上の紹介で松竹蒲田撮影所の監督の小津安二郎と知り合い、祇園で酒を飲み、映画の話をして一夜を明かした。小津はその時の山中の印象について、「忙しい中を風邪心地で悠々一夜を明したその附合のよろしさ。その後姿に僕は誠に好ましいしぶとさを感じた」と述べている。 1934年1月7日、山中は修学旅行以来となる東京へ行き、翌日にキネマ旬報社に勤務していた岸を訪ねた。山中は岸に連れられて松竹蒲田撮影所を訪れ、そこで小津と再会し、小津の親友である清水宏と初対面した。山中、小津、清水、岸の4人は、たまたま東京に遊びに来ていた井上を加えて、湯河原温泉の旅館で大いに飲み語ったり、横浜本牧のチャブ屋へ行ったりして遊び回り、交友を深めた。さらに山中は小津たちの紹介で、映画批評家の筈見恒夫、脚本家の野田高梧、画家の岩田専太郎と知り合いになった。この時以来、山中と小津は最も深く親しい友人となったが、山中は小津の作品にも強く傾倒し、その影響を受けるようになった。 京都に戻った山中は、日活と提携していた片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)に出向し、その主宰者である片岡千恵蔵主演の『風流活人剣』(1934年)を撮影した。この作品では長屋で暮らしながら親の仇を探す浪人の恋を描いており、その題材や設定などには小津の現代劇『出来ごころ』(1933年)の影響が見られた。批評家からは生活描写や心理追求の面で好評を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは5位に選ばれた。この作品の公開後の3月18日には再び上京したが、前回の上京で本牧のチャブ屋の異国情緒あふれる雰囲気を気に入った山中は、いきなり本牧のチャブ屋に旅装を解き、そこから清水に電話をして唖然とさせた。そのあとに小津と会い、一緒に歌舞伎を見物したり、深川の小津の家に泊まりに行ったりして、約1週間の東京滞在を楽しんだ。
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