映画人との交流とは? わかりやすく解説

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映画人との交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 01:05 UTC 版)

山中貞雄」の記事における「映画人との交流」の解説

1933年6月山中マキノ時代先輩だった滝沢英輔親しくなり、滝沢通じて松竹京都撮影所監督だった井上金太郎音頭を取って結成した監督八人会」の一員加えられた。監督八人会は、各社時代劇映画新鋭監督たちが何となく月一回位集まって飲み語るために結成された、さしずめ鯨飲クラブのような懇親会で、山中以外のメンバー井上滝沢荒井良平並木鏡太郎松田定次石田民三秋山耕作だった。『鼠小僧次郎吉撮影中の同年10月には、井上紹介松竹蒲田撮影所監督小津安二郎知り合い祇園で酒を飲み映画の話をして一夜明かした小津その時山中印象について、「忙しい中を風邪心地悠々一夜明したその附合のよろしさ。その後姿に僕は誠に好ましいしぶとさを感じた」と述べている。 1934年1月7日山中修学旅行以来となる東京へ行き翌日キネマ旬報社勤務していた岸を訪ねた山中は岸に連れられて松竹蒲田撮影所訪れ、そこで小津再会し小津親友である清水宏初対面した。山中小津清水、岸の4人は、たまたま東京遊び来ていた井上加えて湯河原温泉旅館大い飲み語ったり、横浜本牧チャブ屋行ったりして遊び回り交友深めた。さらに山中小津たちの紹介で、映画批評家筈見恒夫脚本家野田高梧画家岩田専太郎知り合いになった。この時以来山中小津は最も深く親し友人となったが、山中小津作品にも強く傾倒しその影響を受けるようになった京都戻った山中は、日活提携していた片岡千恵蔵プロダクション千恵プロ)に出向し、その主宰者である片岡千恵蔵主演の『風流活人剣』(1934年)を撮影した。この作品では長屋暮らしながら親の仇探す浪人の恋を描いており、その題材設定などには小津現代劇出来ごころ』(1933年)の影響見られた。批評家からは生活描写心理追求の面で好評を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは5位に選ばれた。この作品の公開後の3月18日には再び上京したが、前回の上京で本牧チャブ屋異国情緒あふれる雰囲気気に入った山中は、いきなり本牧チャブ屋旅装解き、そこから清水電話をして唖然とさせた。そのあと小津会い一緒に歌舞伎見物したり、深川小津の家に泊まり行ったりして、約1週間東京滞在楽しんだ

※この「映画人との交流」の解説は、「山中貞雄」の解説の一部です。
「映画人との交流」を含む「山中貞雄」の記事については、「山中貞雄」の概要を参照ください。

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