日本映画の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:18 UTC 版)
牧野は映画製作のモットーに「1.スジ、2.ヌケ、3.ドウサ」の三大原則を掲げ、この3つを重要視した。スジはシナリオのこと、ヌケは撮影・現像の技術のこと、ドウサは俳優の演技のことである。スジについて、牧野は「ホン(脚本)さえよかったら、誰でもいい演出家になれる」と語っているように、脚本を特に重視しており、マキノ映画製作所時代に寿々喜多呂九平や山上伊太郎などの若き脚本家を育てており、彼らには当時の監督よりも高額のギャラをあげていた。 尾上松之助の忍術映画では、中止めや二重露光などの技術によるトリック撮影を駆使して、人が瞬間で消えたり、動物に化けたり、空を飛んだりするといった、特殊な演出を行った。そもそもトリック撮影を使用したきっかけは、ある映画を撮影していた時に、牧野がカメラを固定させたままフィルムを交換した際、一人の俳優が用を足しにその場を離れ、それに気がつかなかった牧野が撮影を続行。後日フィルムを上映すると、一人の俳優が忽然と消えてしまったというエピソードからであった。ほか、スピード感を演出するため1秒間に8コマという変則的な撮影法を取り入れたりもしている(当時は1秒間に16コマが標準的な速度である)。 牧野が育てた映画人には、内田吐夢、衣笠貞之助、息子のマキノ雅弘、松田定次、二川文太郎、沼田紅緑、滝沢英輔、金森万象、井上金太郎、並木鏡太郎などの映画監督、尾上松之助、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、市川右太衛門、高木新平、松浦築枝、森静子、鈴木澄子、岡島艶子、娘のマキノ輝子などの俳優・女優がいる。 手がけた映画は300本以上に上るが、戦災によりその多くが失われ、現存するのは『忠魂義烈 実録忠臣蔵』、『浪人街』第二部など後世に再編集されたもの数編にとどまる。そのため、作品の全体像を知ることはほぼ不可能なのが現状である。
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