日本における撮影所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 06:01 UTC 版)
1908年(明治41年)、東京の吉沢商会が目黒行人坂に撮影所を設置したのが、日本における最初の撮影所である。つづいてエム・パテー商会、福宝堂がそれぞれ東京の大久保、日暮里に、横田商会が京都・二条城に撮影所を建設、映画製作を行ったが、いずれも1912年に合併し、「日本活動写真」社(通称日活)となった。 1920年代後半(大正年間)には、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、月形龍之介、市川右太衛門、あるいは入江たか子といった当時のスター俳優が独自の製作会社、独自の撮影所を設立したが、いずれも大手企業に呑まれていった。現在では東京と京都にほぼ二分されている撮影所の立地だが、日本の撮影所の歴史の初期には、東大阪市(大阪)や西宮市、芦屋市(兵庫)や横浜市(神奈川)、奈良、千葉にも撮影所は存在した。また、「日本初の映画監督」「日本映画の父」と呼ばれるマキノ省三の「マキノ・プロダクション」も撮影所を持ったが、伊藤大輔の「伊藤映画研究所」(奈良)など当時の独立プロ割拠の時代には、すでに「貸しスタジオ」という発想があり、いくつもの撮影所がレンタル的に機能した。 日本において撮影所システムが確立するのは1930年代(昭和初年)である。それまでサイレント時代は小資本でも映画を作れたがトーキーが登場すると近代的な企業が資本を投下して映画を作る必要が出てきたのである。撮影所システムの特徴は監督以下のスタッフがすべてその映画会社と専属契約していて、なおかつ監督ごとにスタッフが固定している点である。また、俳優もスターから端役に至るまで専属であった。撮影所では同時に並行して何本も映画が撮られており、俳優が1日の間に別の映画の撮影に参加することも珍しくなかった。 1970年代初頭、映画産業の斜陽によって各社は軒並み自社の撮影所を貸スタジオにして独立プロやテレビドラマ、CFの撮影もできるようにし、専属スタッフや俳優も解雇して撮影所システムは崩壊した。 21世紀に入って稼働中の日本の映画撮影所は、東宝の東宝スタジオ、松竹の松竹京都撮影所、東映の東映京都撮影所(うちオープンセットは東映太秦映画村)、東映東京撮影所、KADOKAWAの角川大映スタジオ、日活の日活撮影所では現在映画も撮影されている。加えて、林海象監督の映像探偵社が運営する「川崎5スタジオ」が2007年(平成19年)に開設された。また異色なのが広島県福山市にある「みろくの里」である。これは、CMや映画の撮影もできるテーマパーク「日光江戸村」とは異なり、一般公開していない、純然たる時代劇のオープンセットのほか1棟のスタジオをもっているが、映画会社としての機能はもっていない。
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