戦災
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戦災(せんさい)とは、戦争、戦乱等によって受けた災害[1]。非戦闘員あるいは非軍事的施設が被害を受けることを災害の一種として捉えた呼び方。国民保護法における武力攻撃災害に相当する。
日本において単に「戦災」と言う場合、太平洋戦争による被害を一般にさす事が多い。
日本
太平洋戦争
概要
日本の本土が戦災に遭ったのは末期のことであり、アメリカの爆撃機による空襲、爆撃、機銃掃射などが行われた。沖縄県では地上戦が行われ、また、原子爆弾が広島市と長崎市に投下された。これらの戦災で、日本では50万人以上が死亡した。
- 空襲(戦略爆撃)
- 地上戦
- 原爆被害
- 広島市への原子爆弾投下(1945年8月6日)
- 長崎市への原子爆弾投下(1945年8月9日)
- 日本本土への艦砲射撃
- 民間船舶の被害
- 鉄道車両への機銃掃射
その他の被害
- 旧国宝建築物の被害
なお、1948年1月5日、連合国軍最高司令官総司令部美術関係当局者は、文部省の集計データを基に、戦災で被害を受けた重要美術品、国宝の割合は1%、国宝、重要建造物の割合は12%にすぎないと発表している[2]。
世界
第一次世界大戦
大戦間期
第二次世界大戦
- 空襲
- 市街戦など
脚注
文献情報
- 戦後処理の残された課題 ― 日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償 ― - 宍戸伴久、国会図書館レファレンス2008.12
関連項目
- 灯火管制
- 防空壕
- 青空教室
- 学童疎開
- 戦争一覧
- 戦争犯罪
- 戦災混血児 - 戦争国の兵士と現地住民との間に生まれた子供
- 有事法制
- 傷痍軍人
- 軍事物資による影響 ‐ 鉛や化学兵器による土壌汚染、地雷・機雷原による行動制限、不発弾
- 戦争の影響を受けた森 ‐ 弾丸が埋まっていたり、化学薬品の影響を受けたため木材としての価値は低くなる。
外部リンク
- 一般戦災ホームページ - 総務省
戦災
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
太平洋戦争中、門司市で最初の空襲は、1944年(昭和19年)6月16日のB-29による北九州空襲であり、門司市では、大里、大杉町、黄金町付近に500ポンド爆弾が投下され、死者34名、負傷者25名を出した。北九州5市は防空指定都市に指定され、空襲対策として人員疎開(学童疎開を含む)、建物疎開が行われた。門司市の人員疎開は1944年に3088世帯1万0644人、1945年に1174世帯3721人に上り、疎開先は熊本、佐賀、大分、鹿児島が多かった。 日本商船の80%が通航する関門海峡は、アメリカ軍の集中的な攻撃目標となった。マリアナ諸島基地を出発したアメリカ軍B-29編隊が、1945年(昭和20年)3月27日夜、関門海峡に564トン(約1000発)の機雷を投下し、以後、終戦前日まで46回、合計4696発の機雷が投下された。日本海軍第七艦隊による掃海は困難を極め、関門海峡は完全に封鎖された。 6月29日には特に激しい空襲があり、焼夷弾により門司市内の3600戸余りが焼け、死者55人、負傷者92人、被災者1万6190人を出した。戦争中の空襲は前後9回に及び、被害面積35万坪、死者111人、負傷者217人に上った。日本銀行門司支店などの建物も壊滅したが、門司港駅はホーム1棟を失う被害にとどまった。 8月9日には、B-29が門司市に隣接する小倉市に原子爆弾を投下しようとしたが、視界が悪かったために長崎市に変更されることとなった。
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