戦災からの復興(昭和20年 - )
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:47 UTC 版)
「吉本興業ホールディングス」の記事における「戦災からの復興(昭和20年 - )」の解説
終戦後、吉本興業は演芸による復興をあきらめ、映画の製作と上映に活路を見出すこととなった。そして1948年12月に封切公開された大映映画『大島情話』(主演・坂東好太郎監督・木村恵吾)を皮切りに、次々と映画を製作していった。また所有していた寄席・劇場の多くも映画館に切り替えた。さらに1946年10月には京都で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン。こうしたいち早く時流の流れを読んだ吉本経営陣の読みは当たり、吉本興業の経営は軌道に乗っていった。1948年1月7日に吉本興業株式会社が発足している。1949年5月14日に大阪証券取引所(現・東京証券取引所)、1961年10月2日には東京証券取引所に上場した。その一方で、1950年3月14日には創業者の1人であり、芸人に「おせいさん」と呼ばれて慕われた吉本せいが死去した。 一方、林弘高率いる東京吉本は、戦後の1946年10月、「吉本株式会社」として正式に大阪の吉本興業から分離独立した。銀座に本社とスタジオを構え、東京・横浜の劇場・映画館経営とともに、デビュー当時の江利チエミのマネジメントや力道山のプロレス興行を手がけていった。チエミの場合は、父親が戦前の「吉本ショウ」のピアニスト・久保益雄、母親が喜劇女優・谷崎歳子であり、両親ともに東京吉本の所属だった。さらに1946年11月には、映画会社東映の前身のひとつ、「太泉映画」を設立。東京練馬区大泉に映画スタジオを創設して、『肉体の門』(主演・轟夕起子、監督・マキノ正博/小崎政房)など数々の映画を製作した。また戦後の「浅草花月」は、浅草公園六区のほかの劇場と同様、ストリップや大江美智子の女剣劇を上演する一方、引き続きトニー谷、由利徹、海野かつを、ショパン猪狩(のちの東京コミックショウ)ら、多くの東京の芸人を出演させ、人気を博した。 しかし浅草公園六区の興行街のその後の急速な斜陽化は、「浅草花月」をはじめ多くの劇場・映画館を当地に持っていた東京吉本をも襲うことになる。東京吉本こと「吉本株式会社」は業績が悪化し、最終的には会社更生法の適用を受けるに至った。
※この「戦災からの復興(昭和20年 - )」の解説は、「吉本興業ホールディングス」の解説の一部です。
「戦災からの復興(昭和20年 - )」を含む「吉本興業ホールディングス」の記事については、「吉本興業ホールディングス」の概要を参照ください。
戦災からの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 00:31 UTC 版)
戦後、他の日本の大都市と比較すると京都市内はあまり空襲等の被害を受けていなかったため、車両や施設への被害は最小限ですんでいた。しかし、戦中から続く燃料事情が厳しいなどの状況は継続しており、京都市電気局により運行が行われていたバスは、戦後の時点ではわずか8路線であり、それらも代燃車により運行される状況であった。 このような中で、復興が進められていった。1947年(昭和22年)には、京都市電気局は京都市交通局に名称変更を行い、同時期に進駐軍から車両の払い下げを受け車両の増強に努めた。その後、車両の大型化が進むとともに、戦争に伴い運休となっていた路線の再開が行われ、徐々に戦争前の姿を取り戻していくこととなった。1949年(昭和24年)には、一般貸切旅客運送自動車事業を開始し、1951年(昭和26年)には、夜の観光バスの運行を開始した。 また、京都市内には前述のように戦時統合が行われず、多くの事業者が残されていたため、1948年には省営バスや京阪自動車や京都バスをはじめとした会社線のバスとの相互乗り入れを開始し、1951年(昭和26年)には、京阪自動車、京都バス、丹波交通、日本国有鉄道との運輸協定を締結するに至った。 また、1951年には大阪市に次いで国内では2番目となるワンマンバスの運行を開始した。なお、ワンマン化についてはこの後順次進められていき、1970年に多区間系統のワンマン化の実施、1972年に後乗り前降りの整理券方式による乗降方式の導入が行われていく。 1952年(昭和27年)には、地方公営企業法の施行に伴い、公営企業体としての京都市交通局が発足した。この発足と同時にバスの車体のカラーリングを変更し、現在の市バスの車体にみられる、若草色と濃緑色の曲線からなるデザインへと変更されることとなった。 このような状況の中で、路線の拡充が進められていき、1955年に京阪自動車と共同で京都定期観光バス、1958年に京阪自動車と共同で比叡山線の運行をそれぞれ開始したのが一例である。
※この「戦災からの復興」の解説は、「京都市営バス」の解説の一部です。
「戦災からの復興」を含む「京都市営バス」の記事については、「京都市営バス」の概要を参照ください。
戦災からの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:41 UTC 版)
太平洋戦争の終結後、石島病院の元院長でレイテ島より復員した竹岡秀策により、1946年6月10日に賛育会病院の焼ビルを利用して診療が再開された。翌1947年から東京都や厚生省などの援助により病院の改修工事がはじまり、1951年4月までに修理がほぼ完了した。 この間、賛育会は1946年には長野県上水内郡神郷村(後に豊野町、現在の長野市)に豊野病院、1952年には静岡県小笠郡池新田町(現在の御前崎市)に東海病院を設置して都外に規模を拡大した。1952年5月17日には法人が社会福祉法人に組織変更している。
※この「戦災からの復興」の解説は、「賛育会病院」の解説の一部です。
「戦災からの復興」を含む「賛育会病院」の記事については、「賛育会病院」の概要を参照ください。
- 戦災からの復興のページへのリンク