江利チエミ
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江利 チエミ(えり ちえみ、本名:久保 智恵美(くぼ ちえみ)、1937年〈昭和12年〉1月11日 - 1982年〈昭和57年〉2月13日[1])は、昭和期に活躍した日本の歌手・女優・タレント。
注釈
- ^ デビュー当時のチエミも吉本に所属していた。デビュー当時の吉本は今のような規模になく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった。
- ^ 三亀松の語りにあわせての効果音的なピアノ伴奏は絶妙で、三味線もコードを変えて音を重ねるなど巧みな腕を持っていた。
- ^ 『キング』(講談社)1953年8月号他でこのように伝えられ、後に刊行された伝記『江利チエミ 波乱の生涯/テネシーワルツが聴こえる』でもこの説が採られているが、キャピトル盤のレコードは現在に至るまで発見されておらず、「Federal」というインディーズ・レーベルから発売された盤のみが確認されており、レーベル面には「Recorded in Japan」と書かれている[3]。
- ^ 「ゴメンナサイ」は1953年当時は作曲家の専属契約の問題があり日本では発売されず[4]、1981年発売のLP『NICE TO MEET YOU! CHIEMI ERI』にて日本盤への初収録となった(但し再録音版)。
- ^ 以来、高倉は終生独身を貫き2014年11月10日に83歳で亡くなるまで、毎年チエミの命日には人目を避けるように早朝に墓参し、供花・本名を記した線香を贈り続けていた。
出典
- ^ a b c d e f g h 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.53.
- ^ a b 世相風俗観察会(編)『現代風俗史年表 昭和20年(1945)→昭和60年(1985)』河出書房新社、1986年、63頁。ISBN 4-309-24089-5。
- ^ 原田和典のJAZZ徒然草 第76回、diskunion.net、2012年3月30日。
- ^ 「花形ジャズ歌手評判記 / 堀田金四郎」『婦人生活』第7巻第10号、同志社、1953年9月1日、188頁、NDLJP:2324898/96。
- ^ “1937年1月11日「江利チエミさんが生まれた日」”. DON!(日本テレビ) (2011年1月11日). 2014年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月19日閲覧。
- ^ “「テアトロン賞」とは?”. 江利チエミの世界. 2004年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月9日閲覧。
- ^ 1972年2月刊行、「週刊平凡」第14巻第6号の目次 “週刊平凡 14(6)”. Webcat Plus. 2014年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月30日閲覧。
- ^ 1975年10月刊行、「婦人倶楽部」11月号(第56巻第11号)の目次 “婦人倶楽部 56(11)”. Webcat Plus. 2014年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月30日閲覧。
- ^ 1972年2月刊行、「週刊平凡」第14巻第7号の目次 “週刊平凡 14(7)”. Webcat Plus. 2014年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月31日閲覧。
- ^ チエミの言い分と、〝姉〟吉田よし子さんの衝撃の反論 江利チエミが2億円横領で姉を告訴
- ^ 『紅白歌合戦の真実』(合田道人著、幻冬舎、2004年)p55-56
- 1 江利チエミとは
- 2 江利チエミの概要
- 3 ディスコグラフィー
- 4 主な出演作品
- 5 再評価
江利チエミ
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1959年2月16日(高倉が28歳の誕生日の時に)、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる。江利側からの申し入れで1971年9月3日に離婚した。離婚原因は江利チエミの親族にまつわるトラブルからである。その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。一方、離婚から11年後の1982年2月13日に、江利は脳卒中と吐瀉物誤嚥による窒息のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた。 1962年の主演映画『三百六十五夜』は、岡田茂がなかなか芽の出ない高倉をスターにするため、江利・美空ひばり・雪村いづみの三人娘と鶴田浩二の共演で企画された作品だった。岡田は江利に「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」とオファーしたが、「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。高倉は岡田から「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて、勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけられ、奮起を促されたという。
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江利 チエミ
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「三人娘 (1955-)」の記事における「江利 チエミ」の解説
詳細は「江利チエミ」を参照 愛称: 「エリー」「チーちゃん」「ノニ」など 本名: 久保 智惠美 生年月日: 1937年1月11日 没年月日: 1982年2月13日 配偶者: なし(1959年に高倉健(俳優)と結婚、1971年離婚) 子供: なし 1952年に「テネシー・ワルツ」でデビューし、いきなり大ヒット。翌1953年には第4回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。紅白歌合戦にはその後1968年まで16回連続出場した。ほか1974年~1975年には「酒場にて」がロングセラーとなる等、ヒット曲も多数存在。さらに女優としても主演した映画『サザエさん』シリーズが人気を博し、計10作もの映画が製作され、テレビドラマ化・舞台化もされた。さらに日本におけるブロードウェイ・ミュージカルの初演である東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演し、数々の賞を受賞するなど幅広いジャンルで活躍した。だが、1982年に脳卒中と吐瀉物が喉に詰まる窒息のため急病死。45歳没。
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