八木節とは? わかりやすく解説

やぎ‐ぶし【八木節】

読み方:やぎぶし

日光例幣使街道八木宿栃木県足利(あしかが)市)を中心に栃木群馬埼玉3県境一帯行われる民謡七・七調の口説(くど)き形式盆踊り歌で、酒だる・笛・鉦(かね)などの伴奏で歌う。明治後期堀込源太歌い広めたので、源太節ともよばれた


八木節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 09:47 UTC 版)

伊勢町祭りの八木節

八木節(やぎぶし)は、群馬県栃木県の二県に渡り、愛されている俗謡・盆踊り唄である(概ね両毛地域)。八木節の名は日光例幣使街道の宿場、八木宿(現・足利市)にちなんで名付けられたとされる。

概要

縦に置いた酒を打って拍子(リズム)を取り、笛で軽やかな主旋律を奏でる、軽快な調子の民謡である。盆踊りの音頭として、また花柳界の芸妓により流行が作られた。

八木節の音頭は七七調の口説を中心とする[1]。代表的な国定忠治のものや五郎正宗、紺屋高尾、鈴木主水、継子三次、白井権八などの人情物が多い[2]

踊りは手踊り・手拭い踊り・菅笠踊り・傘踊り・花輪踊り・扇子踊りなど多様で、踊り手は男女を問わない[3]

大正時代前期に八木宿近郊の堀込出身の初代堀込源太(本名・渡辺源太郎、1872年 - 1943年[4])によってレコードに吹き込まれたことで全国に知られた。源太は八木節の「元祖」「創始者」とされることもあり、八木節には「源太節」との別名も存在した[5]

発祥

大正時代前期に堀込源太がレコードに吹き込んだことが八木節が全国的に知られる契機となったが、源太によって大成される以前の八木節の起源については諸説ある。

越後口説

日光例幣使街道沿いの宿場で盆踊り唄として歌われていた越後口説(えちごくどき)を原型として、馬子であった源太が馬子唄(馬方節)をもとに手を加えて八木節が成立したとする説[6][7]。最もよく知られた通説だが、発祥地や直接の元となった唄の点で諸説ある。

越後口説は越後国新潟県十日町市)発祥の神保広大寺節に由来し、七・七・七・五調の小唄だった神保広大寺節が七・七・七・七・・・調の長編の口説に変化したとされている[8]。越後口説は江戸時代後期に大流行し、瞽女遊女によって例幣使街道周辺地域にも伝播したと考えられる。越後口説と八木節は歌詞の点から共通点があるものの、速い拍子(リズム)に特徴のある八木節に対し、越後口説は速度(テンポ))が遅く、源太が親しんだ馬子唄の節を取り入れたと解釈する説である[9]

発祥地・直接の原型となった唄として以下のような説がある。

  1. 木崎宿・木崎節(木崎音頭) - 木崎宿(現・群馬県太田市)で歌われた盆踊り唄・木崎節に由来するという説で、『日本民謡大観』(1944年)で町田佳声が指摘した。町田によれば越後口説は「さよ」という越後生まれの遊女によって木崎宿に伝播し、木崎節という盆踊り唄として歌われるようになったという[10][11]。越後口説の伝播は遊女よりも瞽女が主体であるという説もある[12]
  2. 八木宿 - 源太の出身地に近く、八木節の名の由来ともなった八木宿で歌われていた盆踊り唄に由来するという説[13]
  3. 赤椀節 - 群馬県伊勢崎市境上武士・境下武士で伝承される盆踊り唄・赤椀節に由来するという説。赤椀節は木崎節の影響を受けて成立したと考えられており、木崎節から八木節への発展の過程として赤椀節を位置付ける説である。酒井正保『上州の民謡とわらべうた』、篠木弘明『境町民謡集―八木節のふるさと』などが採用する。源太は境中島方面に養蚕の手伝いとして働きに来ていたことがあり、当地の赤椀節を習得し、それに手を加えて八木節を完成させたとされる[14][15]
  4. 横樽音頭 - 群馬県佐波郡玉村町大字南玉に伝承される横樽音頭に由来するという説。樽を横にして叩くことからこの名がある[16]

朝倉清三

『山田郡誌』は、源太以前の八木節の「元祖」として、朝倉清三(本名・丸山清三郎、1848年ごろ - 1882年[17])の名を挙げる[18]。朝倉清三は足利郡山辺村大字朝倉(現・足利市朝倉町)の人。馬子として八木宿・木崎宿間を行き来し、盆踊り唄の名手として知られたという[19][20]

源太を朝倉清三の直接の弟子とする説もあるが[21]、清三の死没時源太の年齢は10歳であり考えにくい[22]。『山田郡誌』では師弟関係を朝倉清三―中村芳太郎―堀込源太・矢場勝としている[18]。中村芳太郎は本名を中村与四松と言い、源太と同じ堀込の人で、源太より4歳年上の1868年生まれという[17]。矢場勝は本名新井勝一郎、現在の足利市里矢場町出身で1876年に生まれ、源太と一座を組んで興業を行っていた人物である[23][24]

正田政次郎は「民謡八木節について」(『上毛史学』第6号)で、師弟系統を朝倉清三―中里栄吉―中村芳太郎―堀込源太・矢場勝としている[25]。中里栄吉は本名菊池栄吉で清三の跡継ぎとも言われた人物だが1896年に死去したという[26][27]。正田は八木節の名は日清戦争後にできたもので、現在歌われている八木節も中村芳太郎によって作られたものであることから、源太以前から八木節の名も節も存在したとしている。正田は源太を八木節の完成者に位置付け、それと並んで八木節を全国に普及したことを功績として挙げている[26]

神子節

台一雄は『八木節 その源流をさぐる』で、八木節の起源は古くから御厨地区久野地区で伝えられていた盆踊り歌の神子節であるという説を唱えている[28]

上渋垂

八木節の踊りについては、八木宿の東の上渋垂における里神楽ひょっとこ踊りを取り入れた踊りの影響が指摘されている[29]

歴史

八木節は、現在は北関東の郷土芸能的側面を強く打ち出しているが、大正年代から昭和初年代には全国に広がる流行が(安来節同様に)あり、寄席芸能でもあった。発祥については諸説ある。そもそも「民謡正調」が大正期に提唱されたものであり、本項・八木節や、安来節追分などは、隆盛がこの時期に重なった。そのため、同様の争いが起きており注意が必要である。

八木節の名がつけられたのは、大正5年(1914年)の堀込源太による日本蓄音機商会でのレコード録音の際とするのが通説である[30]。それ以前は適当な名称がなく、レコードにつける名前が「盆踊唄」や「源太節」では困るとされて「八木節」になったという[31][32]

他方、石島福次『足利の郷土民謡八木節』などではレコード録音の時期について大正3年(1912年)7月23日という説をとっている[19][33]

さらに、大槻三好は『八木節考』で、大正2年(1913年)6月にヒコーキレコードから『八木節、おやす民三』が発売されているとして上に述べた説を否定している[34]

また、明治43年編の「新田郡綿打村郷土誌」に「俗謡」として「八木節」の名とその歌詞の一部が出てくることや、明治末期から八木節の語が存在していたという証言を根拠とする異説も存在する[35]

他にも、明治42年ごろに足利織物同業組合長関田嘉七郎が足利織物の宣伝のために堀込源太を浅草に送り出し、その際踊った「源太節」が好評だったので関田が「八木節」と命名したとの説もある[36][37]

『山田郡誌』では大正3年、足利市に東京の新聞各社を招いた際、余興として堀込源太が披露したのがきっかけとなり、浅草の興行場で舞台に立つようになったとされている[18]

源太は大正5年から浅草凌雲閣の近くに掛小屋を作って興業を始め、盛況を得て全国各地を興業で回ったという[38]。だが大正9年、安来節の流行に押されて浅草での興業は終わりを告げた[39]

群馬県東毛地域では、八木節の人気に押されてそれ以前からある盆踊り唄は不振となったという[40][41]

現在では、初代堀込源太(渡邊源太郎)の曾孫である、渡邊一利が初代堀込源太の意志を継ぎ、令和7年1月1日に七代目 堀込源太を襲名した。[要出典]

ラジオ放送

  • 1926.8.8 八木節「国定忠次」堀込源太[42][43]

応援歌としての利用例

神奈川県立相模原高等学校の野球応援では、八木節をモチーフにしたオリジナル曲「KENSOUL! 日本の心〜八木節×相模原〜」(同校の通称「県相(けんそう)」と魂「SOUL」から成る造語)が利用されている。 同校吹奏楽部顧問作曲。第34回定期演奏会(2014年4月)で演奏され、その後応援歌として用いられるようになる。野球応援では「ケンソール」と呼ばれている。

脚注

  1. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 753.
  2. ^ 民謡大鑑下p.343
  3. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 754.
  4. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 743.
  5. ^ 足利市 編『足利市史』 下巻、足利市、1929年1月25日、789頁。doi:10.11501/1218050 
  6. ^ 日本放送協会 1944, p. 95.
  7. ^ 足利市史編さん委員会 1978, pp. 344–345.
  8. ^ 大槻 1982, pp. 16–18.
  9. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 742–743.
  10. ^ 日本放送協会 1944, p. 130.
  11. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 729–731, 743.
  12. ^ 大槻 1982, pp. 43–44.
  13. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 744.
  14. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 734–735, 744.
  15. ^

    上野国佐波郡境町在中島(現群馬県伊勢崎市境中島)の桶職だった柿沼庄平は、商売で八木宿方面に出た折に源太を知り、庄平の世話で中島村の尾島長松の家に百姓番頭に来た。養蚕の日雇い稼ぎが主で、毎年夏場半年ぐらいは、中島村で働いていたが、それから10年ほど、源太の中島村時代があったわけである。源太は、一時馬方などやっていたが、生来の唄好きで、よく馬子唄などを唄っていたが、中島村に来てからは、その唄好きによって口説きを唄い出したが、もって生まれた美声と、抑揚に富んだ節調の上手は抜群で、毎晩のように村々の盆踊りに出かけたり、呼ばれて唄って歩いたが、中島村の囃子連中と出場すると必ず入賞で一反流しを手にし、「中島村の源太」として大いに名を上げた。これは源太が30歳から35歳の頃のことで、源太の口説きは大変な評判になった。

    ところが源太は、間延びした口説きの唄い方を、自分で創意工夫して調子のよい唄い方に変えた。それは軽いリズムに乗ったもので、その調子のよさは、一度に聞くものを圧倒させたのである。その軽い節調により、上州人特有の好奇心を見事に捉え、大いに評判になり「源太節」と呼ばれ、盛行することになった。しかし、源太節のはじめは、囃子方がなかったが、源太と一緒にいた小林半七の話には、はじめはただひとりで、囃子なしで唄ったのだが、しばらくして中島村の連中が工夫して、樽やカネ、笛をこれに合わせて囃子方をつくると、源太節は一世を風靡することになる。いわゆるチャカポコ、チャカポコという軽いリズムの囃子方は中島村「現伊勢崎市境中島」方々が知恵を出し合い作られ独自の民謡である。もともと源太は、いわゆる粋な男で、源太一座の髪床師で一緒に興行して歩いていた。桜井という老婆の話では、とても男前のよい芸人肌だったので、どこへ行っても女が付きまとったという。八木節はますます盛んになったが、その八木節の発祥は境町在中島村(現群馬県伊勢崎市境中島)である。その囃子方も中島村人によって創意工夫され、ここで10年間ほど唄われた「源太節」がもとになったわけで、八木節は上州「群馬県」で生まれたのであるが、八木節の名称によって、発祥の地がわからなくなってしまったのである。その元流は口説き節で、元禄の頃からの遺物である。木崎村には木崎節、境村(現群馬県伊勢崎市境)では「赤わん節」と呼ばれ、玉村(現群馬県佐波郡玉村町)には「横樽音頭」などと呼ばれ、今でも唄い続けている。上州の口説き節が、越後から伝わったのは間違いなく、明治初年、前橋民政局の達しに「古来より盆踊りと申事、当国に於ては右様賎敷き風俗無之筈の処、近来越後辺より云々」とある。

    なお、中島村は江戸時代のはじめ、慶長6年に稲垣平左衛門の領地となり、元和2年、前橋酒井雅楽頭領、寛永14年酒井忠能が分家領有して伊勢崎領、寛文2年3月また前橋領、天和2年ふたたび伊勢崎酒井忠寛が領有して、明治にいたるまで伊勢崎藩が領有していた。明治元年4月、明治政府のもとに伊勢崎藩となり、翌2年伊勢崎県の支配、同4年10月伊勢崎県を廃して群馬県の支配となった。ついで熊谷県となり、明治9年また群馬県となった。中島は大名領一給地で、古くから柿沼弥右衛門が名主を世襲していた。今の柿沼十二家だが、寛政6年に名主年番制を定めた。村役人は名主が1人、組頭2人で、3人の村役人が、その以後は1年交替で名主と組頭を、勤めるわけである。村役人源右衛門は柿沼了三家である。天和2年の時の家数は42軒、人数は217人で、慶応元年には家数67軒、人数344人、昔から農業もさかんだったが、舟頭稼業が多かった。

    また、中島河岸から伊勢崎へ通じる道を駄賃馬道と呼んでいる。男が舟頭渡世だったので、馬子には女が多く、姉さんかぶりの女馬子がいい声で馬子唄を唄いながら馬を曳いたと古老が伝えている。明治8年、村内薬師堂に中島小学校が開校され、町田金十郎が初代校長となった。明治12年4月、中島村、小此木村、境町の聯合戸長役場となる。そして明治22年4月の剛志村合併となり、その後昭和30年、境町と合併となる。

    以上のことから、八木節の発祥は境町在中島村(現群馬県伊勢崎市境中島)で、源太と関わりのあった方々の墓石もあり、また、子孫も健在で検証することができ、柿沼、尾島家の家系も正確であることから、従来の木崎節起源説と口説節起源説とは矛盾が少なく妥当で正確な近世歴史の証となる。

  16. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 735–738.
  17. ^ a b 太田市 1985, pp. 346–348.
  18. ^ a b c 山田郡教育会 1939, p. 1448.
  19. ^ a b 三田 1979, p. 267.
  20. ^ 大槻 1982, pp. 55–57.
  21. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 744–745.
  22. ^ 大槻 1982, p. 58.
  23. ^ 太田市 1985, pp. 346–348, 353–354.
  24. ^ 三田 1979, p. 269.
  25. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 752.
  26. ^ a b 太田市 1985, pp. 349–350.
  27. ^ 大槻 1982, p. 57.
  28. ^ 台 1984, p. 41.
  29. ^ 足利市史編さん委員会 1978, p. 345.
  30. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 751–753.
  31. ^ 太田市 1985, p. 359.
  32. ^ 台 1984, pp. 50–53.
  33. ^ 大槻 1982, p. 36.
  34. ^ 大槻 1982, pp. 36, 85, 102–103, 109–111.
  35. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, pp. 752–753.
  36. ^ 足利市史編さん委員会 1978, p. 346.
  37. ^ 大槻 1982, p. 37.
  38. ^ 大槻 1982, pp. 61–62.
  39. ^ 大槻 1982, pp. 67–68.
  40. ^ 群馬県史編さん委員会 1982, p. 762.
  41. ^ 群馬県文化事業団 1982, p. 22.
  42. ^ 『日本芸能年表・下』p.80
  43. ^ 他にもたびたびラジオ放送された。1927年(昭和2年)3月25日の日付記載。他に岡本文彌の新内「弥次喜多」典拠:有竹修二『講談・伝統の話芸』p.283

参考文献

  • 足利市史編さん委員会 編『近代 足利市史』 第二巻通史編 近代(三)~現代、足利市、1978年1月20日。doi:10.11501/9641407 (要登録)
  • 台, 一雄『『八木節』その源流を探る』岩下書店、1984年10月1日。doi:10.11501/12434577 (要登録)
  • 太田市 編『太田市史』 通史編 民俗(下巻)、太田市、1985年3月30日。doi:10.11501/9643541 (要登録)
  • 大槻, 三好『八木節考』現代書房新社、1982年10月25日。doi:10.11501/12434552 (要登録)
  • 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 史料編26 民俗2、群馬県、1982年3月31日。doi:10.11501/9642662 (要登録)
  • 群馬県文化事業団『群馬の八木節』群馬県文化事業団、1982年3月31日。 
  • 榊原帰逸『日本民謡大鑑(下巻)』西田書店、1985年。
  • 日本放送協会 編『日本民謡大観』 関東篇、日本放送出版協会、1944年7月20日。doi:10.11501/1885025 
  • 三田, 忠夫「初代 堀込源太㊤・㊦」『足利の人脈』下野新聞社、1979年1月25日、267-270頁。doi:10.11501/12258621 (要登録)
  • 山田郡教育会『山田郡誌』山田郡教育会、1939年3月10日。doi:10.11501/1907889 

関連文献

  • 福田忠節『八木節宗本家 堀込源太の生涯』善本社、1993年。ISBN 479390310X 
  • 徳丸吉彦/高橋悠治/北中正和/渡辺裕 編『事典 世界音楽の本』岩波書店、2007年。 ISBN 978-4000236720 

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