戦災から復興への長い道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 08:38 UTC 版)
「阪神851形電車」の記事における「戦災から復興への長い道」の解説
881形のうち、制御車として登場した車両と電動車として登場した車両の番号が混在しており、しかも制御車として登場した車両もパンタグラフを搭載していたため、増解結時に制御車だけを切り離して本線上で立ち往生、といった事態が発生した。このため、登場後間もなく制御車と電動車の番号振替を実施、896 - 900を電動車に、901 - 910を制御車に整理し、制御車のパンタグラフを取り外したが、この時に896が偶数車ながら大阪側にパンタグラフを搭載し、901が逆に神戸側にパンタグラフを搭載するという、通常の車両と逆配置で登場した。 戦火が激しくなるにつれて、重要物資の統制による資材不足から故障が多発、881形の電気連結器も雨水浸入によるアース発生で電気配線を焼損する事故を多発させたことから、881形の編成においてもジャンパケーブルを使用することとなった。また、せっかく開始した6連運行も故障車両の増加による車両不足のため、1943年7月10日から再び5連運用に戻った。このような状況においても稼動車両の確保に努めていたが、太平洋戦争末期の1945年になると戦災の上に事故が重なって車両不足は深刻なものとなってしまった。4月23日未明に三宮駅構内で発生した火災によって851形各形式のうち10両が全焼、6月15,22日の尼崎空襲で883,895が半焼、874が中破した。これらの車両のうち三宮構内被災車は1946年6月29日付でいったん廃車されたが、1948年までに制御車として車籍復活、その後1952年までの第二次整備で電動車として復旧した。この他、881形の未電装車輌のうち、被災車904,905以外の8両は1948年に電装取り付け工事が実施され、晴れて電動車となった。 残った車両も酷使がたたって終戦直後には稼働率が極端に低下、ついには国道線で代行輸送を行うところまで落ち込んでしまった。ただ、そのあとの復旧の勢いは目覚しく、終戦からわずか4ヶ月後の12月30日には関西大手私鉄では戦後初の急行運転を開始、ライバルの阪急神戸線や省線電車の先を行く復旧ぶりであった。また、この時期には在籍車両の半数近くが被災した601形や電装品の故障に悩まされて車両の稼働率が低下した1001形各形式の応援に、801,831形ともども普通運用に充当されることもあった。しかしながら復興は二歩前進、一歩後退のペースで、1947年7月には住吉駅 - 御影駅間の架線切断によるデッドアースで853が全焼したほか、1948年6月には897と制御車として復旧したばかりの904が尼崎車庫構内の火災が延焼して全焼、再度工場で復旧工事が施された。それでも復興は着実に進み、1947年ごろから数年間は窓周りをクリームイエローに塗ったツートンカラーの車両が登場したほか、側面のナンバーの字体も現在の縦長ゴシックとなった。1949年5月には5連運用が復活、1950年には梅田 - 三宮間の所要時間が戦前並みの36分まで短縮、同年秋にはジェーン台風の被害を受けたものの、前述のように1952年までには戦前の最盛期に近いレベルまで復興した。
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