881形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 08:38 UTC 版)
日中戦争の勃発後、金属・機械の重工業や軍需工場が沿線に続々と立地し、併せて1939年の梅田駅の地下移転に伴って更に利用者が増加、特急・臨時急行の輸送力増強が喫緊の課題となった。同年6月に鉄道省に対して881形30両の増備申請を行い、12月に認可されて全車川崎車輌において製造が開始されたが、物資統制が厳しくなったこともあって、最初の15両が登場したのは1941年8月の中等学校野球輸送(大会は地方大会の途中で中止)からで、1942年には残り15両が登場したが、そのうち10両は太平洋戦争中の資材不足のため阪神初のモーターなし車両(制御車)として登場した。このほか、戦時体制に入ってからの就役となったことから、併用軌道線の201形同様、それまでの車両から内外装とも簡素化された形で登場した。変更点は以下のとおり。 幕板部の明かり窓を廃止、灯火管制に配慮した。 乗降時の混雑緩和を図るため、扉の幅を従来の1100mmから1220mmに拡大、それに伴って車掌台後ろの小窓の幅を550mmから315mmに縮小した。 座席定員も従来の46名から8名減少した38名となり、袖仕切がパイプ製のものとなった。 室内灯が従来の中央に配置したグローブ型から、管球を左右2列配置した形に変更した。 ウインドシルが平帯となった。 屋根は、運転台上部の水切りがなくなったほか、キャンバス張りとなった。 モーターを東洋電機製造製のTDK-596Aに変更した。 台車は、第二次世界大戦が始まっていたためにローラーベアリングの輸入ができなくなっていたことから、軸受はプレーンベアリングに変更されたほか、搭載したモーターの関係でホイールベースが2030mmに延長され、バネ構造及びイコライザーの形状が変わったが形式名は変わらなかった。 連結器の両側に電気連結器を取り付けた。これは、併用軌道線の71形における使用実績に鑑みて取り付けられたもので、高速電車としては初期の電気連結器採用例であるといえる。 881形の新製時に、申請した両数が30両と多く、しかも全車が電動車であったことから鉄道省では認可に難色を示し、なかなか製造認可が下りなかった。そのため、阪神では881形が15mに満たない小型車であり、当時の省線電車の代表的な形式であるモハ41形に比べると客室面積がその6割しかないことや、小型車ゆえに大出力モーターを搭載することができずMT編成を組成できないことから、やむなく全車電動車として申請していると説明した。その際、鉄道省側からは、「車両が足りないというのであれば、併用軌道線用の車両を新設軌道線で運用できないのか」といった照会があったそうである。その後、1942年に881形15両の新造計画が立てられたが、資材不足のために実現することはなく、同年に登場した896 - 910の15両が、阪神における車長14 - 15m級の小型車最後の新造車となった。
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