1948年まで
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「愛知電気鉄道電7形電車」の記事における「1948年まで」の解説
電7形・附3形は豊橋線の小坂井到達直前に竣工後、1926年4月1日の神宮前 ― 豊川間直通運転開始時に運用を開始し、予定通り1927年6月1日に豊橋線神宮前 - 吉田間が全通した際には両ターミナル間を結ぶ特急と急行に電6形などと共通運用され、日本における長距離高速電車のトップグループとなった。 豊橋線では神宮前 - 吉田間を直通する急行は1時間間隔で運行され、そのうちの1往復を速達列車として特急とした。特急は神宮前 - 吉田間62.4 kmを63分、急行は72分で結び、その表定速度はそれぞれ59 km/h・52 km/hとなった。これらはその運行開始前の時点で日本最速であった阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)神戸線各駅停車の51 km/hを抜く高速運転であった。 電7形を筆頭とする出力400馬力(74.6 kW≒100馬力)の電動車各形式の導入によって速達化を実現した豊橋線の全通は、名古屋・岡崎・豊橋の沿線主要3都市間を結ぶ交通事情に大きな変化をもたらした。特に従来は三河鉄道線を利用して一旦刈谷まで出て、そこで東海道本線へ乗り換える遠回りなルートを経由せねばならなかった知立周辺の利用者にとっては、同駅から名古屋や豊橋と直結する豊橋線のもたらした速達効果は絶大であった。 なお、1927年11月18日届出にて施行された形式称号改定において、電7形・附3形は以下のとおり新形式称号の付与が実施された。 電7形 → デハ3080形 附3形 → サハ2020形 これは愛電が保有する全形式を対象として、形式称号を従来の「電○形」「附○形」から初号車の記号番号をそのまま形式称号とするよう改定したもので、以降愛電において「電○形」「附○形」の形式称号は用いられなくなった。 1928年にはデハ3300形を筆頭とする半鋼製18 m車グループがデハ3080形・サハ2020形の増備車として運用を開始した。同グループは車体寸法は拡大されたものの主電動機や制御器、ブレーキシステムといった主要機器がデハ3080形とほぼ共通で、デハ3080形やデハ3090形とは当然に総括制御が可能であった。このため同グループ各形式は車体サイズの相違から収容力に差があったもののデハ3080形やデハ3090形のグループと混用され、急行などの営業列車で併結運転も実施されている。 その後、愛知電気鉄道は堀田 - 笠寺間の複線化工事完成により1930年9月1日に運転開始した超特急「あさひ」で神宮前 - 吉田間の所要時間を57分(表定速度65.7 km/h)に短縮した。 もっとも、同年10月1日に運転開始された京阪電気鉄道新京阪線のP-6形による超特急が天神橋 - 西院(仮)間を34分30秒で結んで表定速度67.4 km/hを達成、同日付で阪和電気鉄道も全線開業以来2回目のスピードアップを実施して阪和天王寺 - 東和歌山間61.2 kmをノンストップで結ぶ特急により所要48分(表定速度76.5 km/h)を達成したため、愛知電気鉄道がデハ3080形などによって達成し保持していた高速運転の日本記録は3年で、超特急「あさひ」の速度記録に至っては運転開始後僅か1ヶ月でそれも10km/h以上の大差を付ける形で更新され、以後愛知電気鉄道豊橋線(現在の名鉄名古屋本線の一部)が日本国内における電気鉄道速度記録の舞台となることはなくなった。なお戦前の日本内地で最速列車のレコードホルダーとなったのは、阪和電気鉄道の「超特急」(1933年12月20日運転開始。阪和天王寺 - 東和歌山間61.2 kmを途中無停車にて45分(表定速度81.6 km/h)で走破)で、この記録は戦後10年以上経って国鉄の特急「こだま」によって破られるまで保持された。 ただし、京阪電気鉄道新京阪線も阪和電気鉄道も共に豊橋線と同様に速達性を最優先し、建設時点で最新かつ最重量級の100 ポンドレール(現在の50 kgレール相当)を敷設するなど同時代の国鉄特甲線に匹敵する施設を備え、かつ直線主体の良好な線形で計画・建設された、豊橋線を上回る高規格路線であった。しかも両線ともに1基あたりWH-556-J6の2倍に当たる200馬力(≒149.2 kW)の高出力電動機を4基搭載する強力な800馬力電動車であるP-6形(新京阪線:製造初年1927年)・モタ300形・モヨ100形(阪和電気鉄道:製造初年1929年)を新造し、それらのノンストップ運転により記録を達成している。このことから、建設時の最高規格・技術で豊橋線が建設されてからわずか数年で、日本の電気鉄道をとりまく技術的な環境が激変したことが見て取れる。 1930年ごろに撮影された写真を用いた絵葉書ではデハ3300形の前照灯が貫通扉に設置され、1930年9月運転開始の超特急「あさひ」に運用されたデハ3300形は貫通扉に大型のヘッドマークを掲げ前照灯が屋根上固定となっている。このことから愛知電気鉄道ではデハ3300形竣工以降の早い時期に前照灯が貫通扉への取り付け式から屋根上中央への固定式に変更されたと考えられ、実際にも1934年5月撮影のデハ3080の写真では前照灯が屋根上に取り付けられている。 またこれと前後して、アメリカ流の片押し式踏面ブレーキを基礎ブレーキ装置に採用していたデハ3080形のグループについて、より大きな制動力が得られる両抱き式への改造工事が1930年代中盤に実施されている。 愛知電気鉄道は1935年8月1日に名古屋以西・以北の各路線を建設していた名岐鉄道と合併し、ここに現在の名古屋鉄道が発足する。その際に各社からの引継車間で形式・車番の競合が発生したことから1941年に形式番号の整理が行われ、デハ3080形・サハ2020形およびデハ3090形は以下のとおり新形式称号の付与と改番が実施された。 デハ3080形デハ3081 - デハ3084・デハ3080・デハ3086 - デハ3089 → モ3200形モ3201 - モ3209 サハ2020形サハ2020 → ク2020形ク2021 デハ3090形デハ3090 → モ3250形(初代)モ3251 また、この改番と前後した時期に、旧愛知電気鉄道・知多鉄道系の車両については塗装が従来の愛知電気鉄道標準色であったマルーンから合併相手である名岐鉄道で標準色であったダークグリーンへ変更されている。 各車とも戦時中に混雑緩和のため扉間のクロスシートがロングシートに改造された。戦後1948年5月16日に名岐線と豊橋線の電圧統一が成って統合、名古屋本線と改称された。本形式はこの時まで豊橋線で特急をはじめとする優等列車に使用された。
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