1948年の御出現
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1948年8月18日、カルメル会の修道志願者であったテレシタは素晴らしい天国のような香りに気が付いた。そして自分の部屋に入ると、彼女は白い婦人が自分に話しかけて来るのを見た。「恐れないで、私の娘、全てのものを愛するお方が私をあなたのもとに送りました。私はメッセージを持ってきています。」その婦人はシスターテレシタに、修道院の院長の足を洗ってキスをし、そして、その水を飲むように頼みました。その婦人が言うには足を洗うことは、謙虚さと従順のしるしを意味するとのことである。 1948年9月12日にシスターテレシタは ブドウが風も吹いていないのに揺れているのに気が付いた。すると彼女はあの婦人の声を聞き、19日間連続でこの畑を訪れるようにと言われた。その次の日の9月13日午後5時にテレシタはその場所に行き、ひざまづいて「アヴェマリアの祈り」唱え続けていた。その祈りの途中で風が吹き、畑のブドウが動き、美しい婦人が現れた。テレシタによるとその婦人は祈るように手を組み、右手には金色のロザリオを持っていた。その婦人はテレシアに司祭と修道女のために祈るように頼んだ。 9月14日、バラの花びらが修道院にまき散らされた。数人の修道女が暮らす修道院で気が付き、廊下の外にもバラの花びらがあることに気が付き始めた。 午後5時に再び婦人が現れ、「私はこの場所が明日祝福されることを望む」といった。「それは何時でしょうか。」とテレシタが訊ねると、「あなたの修道院長が望む時間でよろしい。私の子供よ。私は、あなたがこれらの15日間の出来事を忘れることを禁じます。」すると、その婦人は突然に消えた。一方、修道院長のメアリ、イエスのセシリアは聖母の御出現の可能性のあるこの事象で、何をすべきか上司と相談することに決めた。アルフレッド・オビア(Alfredo Obviar)師はリサ司教区の補佐司教で、カルメル会の特別指導者であった。司教は修道院長にこの夫人が聖母マリアである証明をしてほしいと求めるよう指示を出した。 最初のバラの花びらがまき散らされた後、テレシタの眼がまったく見えなくなってしまった。修道院長は女性の声を聞き、テレシタの眼にキスをするように、すると彼女の眼は見えるようになるとその声は教えた。ある日、オビア司教補佐の立会いの下、修道院長がテレシアのヴェイルを持ち上げ、眼の部分にキスをした。するとすぐに、テレシアの視界は元に戻り、オビアはもはや疑うことなく聖母の出現であると宣言した。 しかしながら、1951年4月11日に、フィリピンの大司教と、司教団はもう一度調査をやり直すと宣言し、教皇庁の指示があるまでは、リパのカルメル会修道院の超自然現象についてはふれないよう、文章を出した。 カルメル会の修道院長とのインタビューによると、修道院長のメアリ・ザ・セクレド・ハートとシスター・バルダサールはこの御出現に関するリーフレットが入った箱、祈りの本、バラの花びらそして全ての宗教的用具を燃やすよう命じられた。修道女たちは、司教から聖母マリアの像を破壊するよう命じられることもされたが、彼女らの聖母への崇敬からそれらを隠すことにした。テレシタの日記は燃やされた。 テレシタのインタビューによると彼女はエジデオ・ヴァニオッジ枢機卿と1951年に会ったが、その時に彼からカルメル会の修道院を離れて、目の治療院を探しなさいと言われたと言う。教皇の使節団は強く承認を否定し、彼女を悪魔呼ばわりして、彼女に悪魔の存在を残し立ち去るよう、強くドアに押し付けた。テレシタは泣き叫びながら、祝福を求めたが、彼はそれを拒否した。ラモン・アルグレエス・リパ大司教によると、調査委員会の2人の司教はリパに対する管轄権の欠如から、この調査を引き続き行うこととなった。ABS-CBNネットワークのテレビインタビューによると大司教は 文書が改ざんされていなかったか、そして、1951に教皇庁にとどいていたのか、それが即時の却下に結び付いたのではないかと言及した。1991年に、御出現を承認する嘆願書が再度、教皇庁に提出された。
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