1948年の運動
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「ベンガル語国語化運動」の記事における「1948年の運動」の解説
ダッカ大学とダッカの他大学の学生は、硬貨、切手、海軍の新兵募集検査などの公的使用からのベンガル語の脱落に抗議するため、1948年3月11日にゼネラル・ストライキを組織した。この運動は、ベンガル語をパキスタン自治領の公用語と宣言する要求をあらためて表明した。シャムスル・フク、シャウカット・アリ(英語版)、M・シラジュル・イスラム(英語版)、カジ・ゴラム・マハブーブ(英語版)、オリ・アハド(英語版)、アブドゥル・ワヘドといった政治指導者らがこの大規模集会中に逮捕された。集会の指導者モハンマド・トアハ(英語版)は警官からライフルを奪おうとした後に入院させられた。アブドゥル・マチン(英語版)やアブドゥル・マレク・ウキル(英語版)などの学生指導者らがこの行進に参加した。 3月11日の午後、警察の蛮行と逮捕に抗議するために集会が開かれた。州首相ハージャー・ナジームッディーン(英語版)の家に向かって行進していた学生の集団はダッカ高裁(英語版)の前で止められた。集会は目的地を変更し、事務局の建物の方向へ移動した。警察が行進を攻撃し、複数の学生とA・K・ファズルル・フク(英語版)を含む指導者らが負傷した。その後4日間にわたってストライキが続けられた。このような状況下、州首相ナジームッディーンは、ベンガル語を国語化するという要求には応じることなく、学生指導者らといくつかの条件に同意して協定に署名した。 市政の混乱の高まりの中、パキスタン総督ムハンマド・アリー・ジンナーが1948年3月19日にダッカに到着した。3月21日、レースコースグラウンド(英語版)での市民による歓迎会で、ジンナーは、この言語問題はパキスタンのムスリムを分断するための「第五列」による陰謀であると主張した。ジンナーはさらに、「ウルドゥー語が、ウルドゥー語だけが」ムスリム国家の精神を具体化し、国語としての地位にとどまるだろう、と宣言した。また、自身の見解に異論があるものを「パキスタンの敵」とのレッテルを貼った。ジンナーは3月24日にダッカ大学のカーゾン・ホール(英語版)でも同様の演説を行った。どちらの集会でも、ジンナーは大部分の聴衆によって言葉を遮られた。ジンナーはその後、国語活動委員会の会合を招集し、ハージャー・ナジームッディーンが学生指導者らと交わした協定を却下した。4月28日にダッカを離れる前、ジンナーはラジオで演説し、自身の「ウルドゥー語のみ」政策を再びより強く主張した。 その後間も無く、言語問題についての報告書をまとめるためにマウラナ・アクラム・カーンが議長を務める東ベンガル言語委員会が東ベンガル政府によって設立された。委員会は1950年12月6日に報告書を書き上げた。
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