複線化
複線化
複線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:26 UTC 版)
1889年7月1日東海道本線新橋駅 - 神戸駅間が開通。その後、逢坂山隧道を含む京都駅 - 馬場駅間は両側共に25‰の急勾配区間があり、輸送上のネックとなっていたために、東海道本線の中でも優先して複線化が計画された。1897年3月5日に大谷駅 - 京都駅間に下り線を増設し、1898年4月15日には馬場駅 - 大谷駅間の上り線増設に伴い上り隧道が開通した。 その後、勾配を緩和した東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通し、同区間の新線が1921年8月1日に開業すると、同時に逢坂山隧道は鉄道トンネルとしての使命を終えたが、太平洋戦争中の昭和20年、B29の爆撃に対しての工場疎開としてトンネル内に工作機械が置かれ航空機部品工場として敗戦まで使用された。現在は、トンネル東口は京都大学がトンネル内に設置した地震計への通路となっており、西口は「旧大谷駅」と共に名神高速道路の盛り土の下に大半が埋まっているが、名神高速道路(上り線側)蝉丸トンネルの西側入口左横に逢坂山隧道西口の遺構を確認出来る。(なお、夏季は雑草が生い茂っており視認し辛いが冬季は比較的容易に視認可能である。)
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複線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:44 UTC 版)
「荒川橋梁 (東北本線)」の記事における「複線化」の解説
日本鉄道では1889年(明治22年)1月に上野 - 大宮間の複線化を決議し、3月6日に政府の許可を得た。直ちに着工し、1892年(明治25年)10月19日に一通り竣功したが、荒川橋梁の複線化が完成していなかったため赤羽 - 川口町(後の川口)間のみ単線運転をしていた。荒川橋梁の複線化に当たっては、仮線の敷設や運休などは行わずに、列車を運行しながら従来の単線トラス桁を複線トラス桁に交換する作業を実施した。また、プレートガーダー部については1線分の新設を実施した。新設したプレートガーダーの側が上り線で、この際に新たに建設した橋脚は下り線のものと密接して一体となるようにされた。また下り線橋脚建設時には無かった杭打ち基礎が用いられている。新たに架設された複線トラス桁は、イギリスのコクラン製のものである。 1894年(明治27年)4月に着工し、翌1895年(明治28年)3月に竣工して、4月1日より供用を開始した。これにより上野 - 大宮間の全線複線化が完成した。なおこの時架設した橋桁は全部または大部分が、当初の錬鉄製から鋼鉄製になっているのではないか、という説があるが、はっきりしない。開通当初、全長3,032フィート1.5インチ(約924.2メートル)とされていた荒川橋梁は、後の関東大震災時の記録では上り線3,034フィート6.25インチ(約924.9メートル)、下り線3,033フィート4.75インチ(約924.6メートル)とされている。また複線化に際して撤去した単線トラス桁は、日本鉄道磐城線(後の常磐線)の久慈川橋梁に転用されたと伝えられている。 日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、上野 - 大宮間を含む線路は東北本線と命名された。これにより荒川橋梁は東北本線の橋梁となった。
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複線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:32 UTC 版)
戦前に複線化されていたのは1942年完工の鳳山以東のみだった。1980年代に屏東までの複線化事業が進行し、1988年に高屏渓を渡河する九曲堂から屏東間が、1989年に鳳山と九曲堂間が開通し、屏東以東が全区間複線化された。2015年には電化区間延伸とともに潮州までの複線化が完了した。
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複線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:32 UTC 版)
「富士川橋梁 (東海道本線)」の記事における「複線化」の解説
日本の官設鉄道(国有鉄道)では、創業以来イギリスの技術的影響下に建設が進められており、橋梁もイギリス流のものであった。しかし1882年(明治15年)に日本に赴任したアメリカの橋梁技術者ジョン・ワデルは日本におけるイギリス流の鉄道橋設計を批判し、さらに機関車の大型化が進んで従来のイギリス流のトラス桁では強度も建築限界も不足することが明らかとなってきて、全面的な設計変更が必要とされるようになってきた。1896年(明治29年)に、それまで建築師長を務めてきたチャールズ・ポーナルが帰国すると、早速アメリカのセオドア・クーパーとチャールズ・シュナイダーに委嘱してアメリカ流の標準トラス桁の設計が行われた。東海道本線の複線化に当たっては、このアメリカ流の新しいトラス桁が採用され、イギリス型のトラス桁と並んで架設されていくことになった。 富士川橋梁においても、支間204フィート9インチ(約62.41メートル)のアメリカン・ブリッジ製の単線下路プラットトラス桁9連を用いて複線化工事が行われた。線路中心線間隔にして、従来の橋より11.34メートル下流側に架設されることになり、径間構成は従来の橋と一致させて建設された。1910年(明治43年)3月6日に富士川信号所 - 岩淵(現富士川駅)間が複線で開通し、当初建設された橋は上り線として、新たに建設した橋は下り線として供用開始された。新しいトラス桁は、上弦材の中央部のみ平行弦とし、両端部は曲弦となっており、発案したドイツ人技術者にちなんでシュウェドラートラスと呼ばれるものである。新設橋梁の設計活荷重は、重量206,000ポンド(約93.4トン)の車軸配置1D型テンダ機関車重連に、列車荷重が1フィート(0.3048メートル)あたり3,000ポンド(約1.36トン)で続くものとした、クーパーE29に相当するものである。
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