戦災と復興
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1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲は仙台市中心部を焼き払い、ガス事業にも壊滅的な損害を与えた。事務所・工場など8棟が全焼し、機械設備も多く損傷し、市街の配管も被害を受けた。仙台市はガス供給が停止した状態で敗戦を迎えた。 応急工事は8月に始まり、10月10日に焼け残りの約1500戸に供給を再開した。需要家の数は空襲前の半分以下である。戦後のガス供給のネックになったのは原料となる石炭の不足で、時間制限や休日休止といった制限をかけての供給だった。24時間供給が可能になったのは、1950年(昭和25年)12月30日からになった。設備の完備、需要戸数などについても、戦前水準に回復したのはこの頃である。 仙台市は、1952年(昭和27年)施行の地方公営企業法を受けて、水道ガス事業局を発足させ、仙台市営の公営企業とした。1954年(昭和29年)に国がガス事業法を施行すると、翌1955年(昭和45年)に仙台市はこれにあわせて仙台市ガス供給条例を制定。翌1956年(昭和31年)3月に水道とガスを分離して仙台市ガス局を設置した。
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戦災と復興
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太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)6月19日夜、豊橋の街はアメリカ軍によって空襲された(豊橋空襲)。市街地の約90%が焼失する被害を受け、豊橋駅も機関区と配電室を除いて被災、駅舎は全焼した。東海道本線が平常運転に復するのに1週間を要し、駅の一般乗降客の取り扱い再開は7月20日だった。飯田線は6月22日に、名鉄線は翌23日に再開した。空襲後、駅舎は東海道本線側はバラックで営業を続け、飯田線・名鉄線側(旧吉田駅)についてはコンクリート壁だけが焼け残った残骸のまま使用されていた()。 空襲から5年後の1950年(昭和25年)、新駅舎が再建された。この駅舎は、国鉄以外の企業・自治体などが駅舎の改築工事費を分担し、竣工後に一部を商業施設などに使用する「民衆駅」の第1号として有名である。木造2階建て・建坪560坪(1850m2)で、1階に飲食店・理髪店・雑貨店など民間の商業施設が、2階には市民出資の「豊栄百貨店」が入居した。同時期に、駅前広場の拡張も実施された。従来の広場面積は4,000m2を拡張して18,600m2とした。広場には、防火用水と広場の美化を目的に噴水も設置された。
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戦災と復興
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太平洋戦争が起こると、当工業地帯は東京大空襲・川崎大空襲・横浜大空襲によって壊滅的な打撃を受けた。さらに終戦後、米軍により接収が行われ、工業活動が停滞した。現在でも横浜市部には多くの米軍施設が残り、代表的な例では神奈川区の瑞穂埠頭があり、横浜ノースドックとして接収されたままとなっている。 朝鮮戦争が起こると、停滞していた工業活動も再び動き始め、高度経済成長の時代に突入。鉄鋼・非鉄金属・エネルギーが伸び始め、それに合わせて東京港修築計画等による港湾設備・道路などの産業基盤が整備され、一大工業地帯へと発展した。同時に土地不足も顕在化し、東京都は大田区地先に京浜島・昭和島・城南島の造成を行い、川崎市は扇島・東扇島の造成を行い、横浜市は大黒埠頭・本牧埠頭の造成、根岸湾岸の埋め立てを行った。
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戦災と復興
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太平洋戦争末期、空襲により八重洲口周辺の市街は壊滅的な被害を受けた。 戦後、戦災残土(瓦礫)処理のために外濠や京橋川は埋め立てられた。占領当局から戦災残土処理が命令される一方で、必要な機材や燃料は不足しており、濠や川の埋め立ては「手っ取り早い」方法であった(ただし、戦前から濠や川の埋め立て計画が立案されてはいた)。1948年(昭和23年)には八重洲橋も姿を消した。埋め立てられた外濠跡を用いて駅の拡張工事が行われた。1948年(昭和23年)11月、八重洲口に新駅舎が建設されたが、6か月後の1949年(昭和24年)4月、失火により焼失した。 戦前、東京駅の乗降客数の割合は 6:4 でオフィスビルが多い丸の内側が多かった。しかし戦後、丸の内側の多くのオフィスビルが連合国軍最高司令官総司令部に接収されたため、追い出された企業の多くが東京駅をはさんだ八重洲に拠点を求めた。このことにより、一時的に八重洲側の乗降客数が逆転、地価も暴騰した。
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戦災と復興
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太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内駅舎の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。 同年8月の終戦直後から修復計画を立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。中央ドームは木造小屋組で元の形に復原し、南北両ドームは丸型から台形に変更。軒蛇腹・パラペットや壁面、柱型、窓枠などは2階建てになっても忠実に復原した。南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更、といった内容だった。 仮の修復だったが、当時の鉄道省や大林組の努力で日本の中央駅として恥ずかしくないデザインで修復をした逸話が伝えられている。 一方、八重洲口には、1948年(昭和23年)11月16日にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工したが、翌1949年(昭和24年)4月29日に失火で焼失。1954年(昭和29年)10月14日に鉄道会館ビルが建てられ大丸が開業した。外堀が埋め立てられて、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋が解体撤去された。 なお、この鉄道会館ビル建設と前後して、丸の内駅舎も更地にして、跡地に24階建ての高層ビルを建設する構想が存在した。ビルのテナントとして外国の領事館や大手商社が入居し、更に丸の内と八重洲の東西を貫通する高速道路を整備するという壮大なプロジェクトであったが、プロジェクトの中心人物であった国鉄総裁の十河信二が1963年(昭和38年)に退任したこともあり、この構想は幻となった。
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戦災と復興
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801、831の両形式とも、戦前の阪神に在籍していた他形式同様日中戦争から太平洋戦争へと続く時代の流れに翻弄された。1943年11月に川西航空機本社工場への通勤・資材輸送路線として武庫川線武庫川 - 洲先間が開業した際には811 - 815の5両が中央ドアを境に交互に座席を撤去して、同様の座席撤去改造を受けた1121 - 1126同様同線専用車となり、主として4連で運行された。翌1944年8月に国道線との連絡のために武庫大橋まで延長された際には運転区間を同駅まで延長した。 1945年に入ると、801、831の両形式とも他形式同様の災禍を蒙ることになった。4月23日未明(午前4時ごろ)の三宮駅構内留置車両の火災においては10両が全焼、その後6月15日の尼崎空襲では車庫内において821、824、825、848の4両が半焼する被害を受けた。それ以外にも事故や故障で動けなくなる車両は続出し、終戦直後の枕崎台風では梅田駅構内と尼崎車庫が高潮で水没したことによってさらに車両状況は悪化、ついには国道線での代用輸送を余儀なくされた。しかし、その後の車両復旧は急ピッチで進み、年末の12月30日には関西私鉄のトップを切って急行運転を復活、801、831形も851、861、881の各形式とともに急行運用に投入された。ただ、この時期は普通用の1001形各形式に故障車が多かったことから、余裕のあった急行用の各形式も普通運用に充当された。 復旧の過程で、三宮駅構内における被災車は他形式の被災車同様1946年6月29日付で廃車され、車体は錆止め塗装を施されたうえで尼崎車庫の片隅に留置された。これらの車両は1948年6 - 8月にかけて川崎車輌、溝口車輌、摂津車輌の各社で復旧工事が実施されていったん制御車として車籍復活したが、この際に前面・側面とも大きく改造され、前面は851形に準じた「喫茶店」スタイルの3枚窓となったほか、側面はdD5D5D1dと、客用扉を移設して乗務員扉を設け、運転台を広く取って前後非対称の窓配置になったことにより大きく印象が変わった。これらの復旧車も1949年から1952年にかけて再電装を実施、完全に復旧した。この際、807と820のパンタグラフの位置を大阪側から神戸側に移設している。 時期は前後するが他形式同様1947年から数年間茶色と窓周りクリームイエローのツートンカラーに塗られていたほか、側面の車番表記も現在と同じ縦長ゴシックに変更された。また、武庫川線向けに座席撤去が行われていた811 - 815も1949年に座席復元改造が実施された。
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