移設
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1895年(明治28年)、御便殿は広島市に払い下げられる。その中で市は、1898年(明治31年)から比治山を公園として整備する方針で進め、1909年(明治42年)10月比治山北端の約6,600 m2を造成し、御便殿を移設した。この際、仮設の便殿であった当初のものと比べ、内部は当時と同じままであったが外観は宮殿のように増築している。設計者は不明。 1910年(明治43年)2月11日紀元節、正式に開場。宮殿を模した造りで中には御真影や御物が奉置されていた。ただ中に入ることは禁止されており入り口は塞がれ、金網で全て覆われていた。その他、周辺には皇族関連のものが整備される。正面の大鳥居は、1913年(大正2年)明治天皇葬場殿の儀の際、青山斎場(現明治神宮外苑)に建てられたものを移築したものであり、設置の際には銅板で巻かれている。御便殿の傍らには大正天皇即位を記念して、1918年(大正7年)絵馬堂式の「御即位大礼記念館」が建てられた(右絵葉書参照)。また馬の像があったと証言がある。 移設後の「舊御便殿」には明治天皇は行幸しておらず、大正天皇は皇太子時代に広島行啓はあるがこの地には行啓しておらず、昭和天皇は皇太子時代である1925年(大正15年)5月26日にこの地を行啓している(下記参照)。 以降この舊御便殿は当時の広島市民から聖なる場所として崇められる。日清戦争当時明治天皇が広島に来た日である9月15日を「大纛進転記念日」戻った日である4月27日を「大纛退転記念日」として参拝し、大戦中の毎月8日には「興亜奉公日」として早朝から参拝が行われた。 また舊御便殿は戦前における観光名所となり、市民の憩いの場として、花見などが行われた。戦前の万花園(羽田別荘)の広告の歌詞で浅野の泉邸(縮景園)・二葉の里の月見・江波山・饒津神社のハギと並んで、御便殿も名所として歌われた。当時の様子がわかるものとして、例えば戦前における広島名所の絵葉書に登場する。1929年(昭和4年)、広島市主催で「昭和産業博覧会」が開かれた際には比治山が第二会場として整備され、そのメインパビリオンがこの御便殿であった。 1945年(昭和20年)8月6日、原爆によりは全壊。なお、焼失ではなく爆風により吹き飛んだと証言がある。倒壊した部材は市民に持ち去られた。鳥居については残ったが、下部から銅販が持ち去られた。そうして石垣のみが残ることになった。 その石垣の南側には1970年頃まで、動物小屋が幾つかあり小動物が飼われてミニ動物園のようになっていた(戦前から小動物が飼われており遊園地もあったと証言もある)。広島市安佐動物公園開園でそこへ動物は引き取られ小屋は撤去された。 戦後、御便殿を復興を呼びかけることも考えられたが実現せず、戦後しばらく残された基礎の石垣部分も、1982年(昭和57年)に比治山を芸術公園として整備することを決定。石垣部分は掘り下げられ壁泉が整備。ポルトガルから輸入した石が敷き詰められた。元々石垣に使われた倉橋島の花崗岩は、広島市西部開発に運ばれたと言われている。また、広場の一角には1983年(昭和58年)に比治山公園青空図書館(現・広島市まんが図書館)が整備された。 御便殿の石垣および大鳥居ともども現在は無い。
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