皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 09:15 UTC 版)
初代皇帝武帝の次男であったが、兄の司馬軌が夭折したため後継者に早くから指名されていた。267年1月に皇太子に立てられたが、重臣の間でも司馬衷の資質は危ぶまれており、和嶠は「皇太子は非常に素直な性格ですが、今の世の中には偽りが多く、おそらくは皇帝の責務を果たすことは出来ないでしょう」と武帝に諫言している。また衛瓘は宴会の席において皇帝の椅子を撫でて「この座惜しむべし」と述べ、遠回しに皇太子廃立を勧めている。 278年10月、武帝は東宮の官員を集めると、尚書の業務について司馬衷に決裁させ、これをもって太子にふさわしいかどうかの試験とした。だが、司馬衷はこれに答えられなかったので、賈南風は給使張泓に代筆を命じたが、故事を用いれば他人が代筆したとばれるので、学問が苦手な司馬衷でも書けそうな及第点ぎりぎりの内容の文章を作らせた。司馬衷はそれを自分の手で書き直してから武帝に提出し、この回答に満足した武帝は大いに喜び、皇太子廃立は取りやめとなった。同年、側室の謝玖との間に司馬遹を生んだ。司馬遹は幼い頃から頭脳明晰であり、司馬炎から寵愛された。司馬炎が暗愚と言われる司馬衷を後継ぎにした背景には、愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。
※この「皇太子時代」の解説は、「恵帝 (西晋)」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「恵帝 (西晋)」の記事については、「恵帝 (西晋)」の概要を参照ください。
皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 00:20 UTC 版)
「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「皇太子時代」の解説
ウィキメディア・コモンズには、パーヴェル1世に関連するメディアおよびカテゴリがあります。 幼児期に母親から引き離されてエリザヴェータ女帝の下で養育され、1760年には教育係(東宮傅育官)としてニキータ・パーニン伯爵が任命された。エリザヴェータは後継者であるパーヴェルを溺愛したが、無分別で無思慮な少年に育ってしまったとされる。その一方で、少年時代のパーヴェルについては知的で容貌が美しいとも報告されている。1771年にチフスにかかり、容貌が変化したため、粗暴で猜疑心の強い性格を形成したといわれる。家庭教師のポローシンは、パーヴェルが常にせっかちで話に熟慮が見られないと述べている。なお、チフス罹患を契機にパーヴェルに生殖能力があるのかを確認しようとする母のエカチェリーナ2世の勧めでソフィア・ステパノヴナ・チャルトリスカヤ公爵夫人を愛妾とし、1772年には男児・セミョーン(1772年 – 1794年)が誕生している。 エカチェリーナ2世は、産後すぐに手元から引き離されたパーヴェルに対して、世間一般のような愛情を感じることはなかった。ロシア駐在イギリス大使(英語版)のバッキンガムシャー伯爵が1764年に報告したところではエカチェリーナ2世がパーヴェルを憎み、1762年の宮廷クーデター(ロシア語版)の後にもう一度宮廷クーデターを起こすことの危険性がなければ、パーヴェルを殺害しただろうという。一方で彼女はパーニンという有能な教育係や家庭教師などをパーヴェルにつけている。ホルシュタイン公を兼ねていたが、1773年にデンマークに割譲した。同年、エカチェリーナ2世の計らいでヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘ヴィルヘルミーナ(ナターリア・アレクセーエヴナと改名)を皇太子妃として迎えた。ナターリアが1776年に産褥で死去した後、パーヴェルはヴュルテンベルク公国からゾフィア・ドロテア(マリア・フョードロヴナと改名)を迎え、再婚した。夫妻の間には10人の皇子女が生まれた。 パーヴェルは、自分が母に暗殺されると疑心暗鬼に陥っていた。自分の皿に割れたガラスが混ざっていると訴えたこともあった。一方でパーヴェルは奪権を目指し、陰謀をめぐらし始めた。エカチェリーナ2世は、パーヴェルの師父であるパーニン伯を引退させるとともに、各参事会への出席を取りやめさせるなど、政治の場から距離を置くようにした。プガチョフの乱は、パーヴェルの立場を微妙なものとした。 エカチェリーナ2世は懐柔策の意味もあって、1777年のアレクサンドル(後のアレクサンドル1世)誕生を記念し、サンクトペテルブルク近郊のパヴロフスクに領地を与えた。さらに1781年から1782年にかけてパーヴェル夫妻に対して、西ヨーロッパ旅行を勅許した。1783年、エカチェリーナ2世はパーヴェルにガッチナを与え、パーヴェルは自らの宮廷を持った。 父ピョートル3世同様にプロイセン風に儀装させた軍隊を閲兵する遊びに熱中するが、それは母帝の最も忌み嫌うところであった。パーヴェルの短気で猜疑心の強い性格は変わらず、皇子女達に対しても恐ろしい暴君然として相対していた。 エカチェリーナ2世はパーヴェルに見切りをつけ、彼を廃嫡して孫のアレクサンドルを次代の皇帝たらしめんと望むようになった。実際に行動に移ることはなかったが、パーヴェルの殺害以外に方法はなく、エカチェリーナ2世がそれを選ばなかったためとされる。
※この「皇太子時代」の解説は、「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」の記事については、「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。
皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:27 UTC 版)
「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の記事における「皇太子時代」の解説
1919年、ガージャール朝の軍人レザー・ハーンの長子としてテヘランに生まれた。1925年に父がレザー・シャーとして皇帝に即位しパフラヴィー朝を開くと、皇太子となった。 その後、上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校「ル・ロゼ」へ留学した。なお、同校においてはその後アメリカのCIA長官となるリチャード・ヘルムズら同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作った。
※この「皇太子時代」の解説は、「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の記事については、「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の概要を参照ください。
皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:09 UTC 版)
1989年(昭和64年)1月7日、祖父昭和天皇の崩御を受け、父の皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が第1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。 父帝の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。 1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
※この「皇太子時代」の解説は、「徳仁」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「徳仁」の記事については、「徳仁」の概要を参照ください。
皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、皇族身位礼第17条の規定により満11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。また、同日付で大勲位菊花大綬章を受章した。 翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。東宮御学問所では、杉浦重剛(倫理)、白鳥庫吉(歴史)、石井国次・山崎直方(地理)、飯島忠夫(国漢)、和田猪三郎・服部広太郎(理科)、吉江琢児(数学)、澤田節蔵・土屋正直・山本信次郎(仏語)、壬生基義(馬術)ら、学者や軍人・官僚らが教育にあたった。また、学習院時代からの学友5名が出仕して共に学んだ。 1914年(大正3年)10月31日、満14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月31日には満15歳で陸海軍大尉に昇任した。さらに、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。 1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王が皇太子妃に内定。ただし裕仁親王が自身の婚約を知ったのは翌年であり、翌々年になって儀礼的に面会したのみで、婚姻以前に良子女王と親しく会う機会は無かった。 1919年(大正8年)4月29日に満18歳となる。当初は誕生日に成年式が執り行われる予定であったが「都合により」延期された。5月7日に成年式が執り行われ、翌5月8日に大正天皇・貞明皇后主催の饗宴が催された。また、帝国議会貴族院皇族議員となり、践祚まで約7年8か月間在任した。 1920年(大正9年)10月に満19歳で陸海軍少佐に昇任した。1921年(大正10年)2月10日、良子女王との婚約に変更無しと公表され、婚約を巡る騒動は決着した(宮中某重大事件)。同年2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化のなかで、同年3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州5か国を歴訪した(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。また往路で、沖縄に立ち寄ったのが、生涯唯一の同地訪問となった。英国訪問中の5月9日、イギリス国王ジョージ5世から「バス勲章」「ロイヤル・ヴィクトリア勲章」を授与され、「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。 立太子した裕仁親王(1916年、満15歳) 立太子を祝賀し、宮城前広場に集う市民 内約中の良子女王(1918年頃、満15歳) 陸軍歩兵大尉の正衣を着用(1919年(大正8年)4月、満18歳) 訪英時、ロイド・ジョージ英首相と(1921年5月、満20歳)
※この「皇太子時代」の解説は、「昭和天皇」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「昭和天皇」の記事については、「昭和天皇」の概要を参照ください。
皇太子時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:50 UTC 版)
詳細は「皇太子裕仁親王の欧州訪問」を参照 皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。 裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。御召艦には戦艦「香取」が用いられ、横浜を出発して那覇、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、カイロ、ジブラルタルと航海し、2か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスの首都ロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会談した。この夜をジョージ5世は、「慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いた」と語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館、ロンドン塔、イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ。ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与された。19日から20日にかけては、スコットランドのエディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与された。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない」と感嘆したという。 イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れたりした。 戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和が史上最長の元号になったことにちなみ最も印象深い思い出を聞かれた際、大戦前後を例外にして、「自由を味わうことができた」として、この外遊を挙げた。
※この「皇太子時代」の解説は、「昭和天皇」の解説の一部です。
「皇太子時代」を含む「昭和天皇」の記事については、「昭和天皇」の概要を参照ください。
- 皇太子時代のページへのリンク