大戦前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 06:37 UTC 版)
「日系人の強制収容」も参照 1931年(昭和6年)満州事変以降、排日はより強くなっていった。こうした中でも移民自体は続き、日系移民による日本への送金も続いていた。そこへ1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発に伴い南米への移民も完全に止まることになり、日系移民はそれぞれの地で敵性国民として扱われるようになる。アメリカやカナダでは強制収容が行われ、他の国でもそれに近い扱いを受けている。広島出身の母を持つダニエル・イノウエなど、アメリカ市民権を持つ日系二世の中には忠誠心からアメリカ兵として志願しヨーロッパ戦線に参戦していった。アメリカ日系人の強制収容は1945年(昭和20年)1月1日に解かれ帰還が許されることになるが、彼らは家も土地も家財道具もないゼロからの再出発であることに加えて、反日感情が残る中での厳しい状況下で生活しなければならなかった。 一方日本側では、日本にルーツを持ち勉学のため帰国した二世などが大戦によって帰れないまま日本に住んでいた。彼らは大戦中「アメリカ帰りはスパイだ」と疑われた。短波ラジオを持っていたというだけで警察に調べられたという。中島覚(レスリー・ナカシマ)は広島出身の両親とともに日本に帰国していたが、アメリカ国籍のみであった理由から職を追われ職を得るためにアメリカ国籍を放棄し日本国籍を取得している。広島出身の父(銭村健一郎)を持つ銭村健次など、二世の中には学徒出陣したものもいる。大戦末期には本土決戦に備え第2総軍司令部が広島市に置かれると、英語がわかることから帰米二世女学生の中から陸軍秘密部隊である短波傍受班「特情班」が編成された。1945年時点で広島と長崎には、アメリカ人が約3,000人、他ペルー人・ブラジル人が少数おり、その殆どが帰国した二世であった。同年8月6日、広島にいたものたちは被爆することになる(下記「在外被爆者」の節、および日系アメリカ人被爆者を参照)。 「広島市への原子爆弾投下」も参照 アメリカでは広島に原爆を投下したニュースは8月7日主要紙で報道され、その広島の惨状はレスリー・ナカシマが世界に初めて外電し8月31日付『ニューヨーク・タイムズ』や同日付『ロサンゼルス・タイムズ』に掲載されたものの、9月GHQによるプレスコードが始まって以降はその情報は途絶えた(連合国軍占領下の日本)。アメリカ日系人が戦後の再出発から立ち直りつつあった1947年中頃、日本を訪れるものが現れるようになった。その中で広島を訪れ復興状況を映像に収め楠瀬常猪広島県知事から救済を依頼されたものがアメリカに帰り、県人会で故郷の救済を提案、そこで広島県人移民がたちあがることになった。その当時多くのものは広島の状況を断片的にしか知らずどう助ければいいのかわからなかったこともあり、救済金を送ることを待ち望んでいたという。ロサンゼルスの県人会幹部によると、寄付金を募って廻ると金を出す側が幹部に礼を言ったという。ハワイでは県人会でなく日系人コミュニティの中で運動が起き、広島県人だけでなく他県出身のものも募金に参加している。結果、ハワイでは総額約11万ドル(時価3,960万円)、ロサンゼルスでは南加広島県人会が400万円、ペルーの県人会では140万円、他アメリカ各地やブラジル・アルゼンチンの広島県人会、更に団体関係なく個人での献金も集まり広島に送られた。こうした資金は復興資金にあてられている。 海外移住事業団による渡航費支給移住者数(1952年-1972年・上位15位まで)都道府県移住数(人)沖縄 6,725 熊本 4,307 福岡 4,262 北海道 4,200 長崎 3,794 東京 3,552 高知 2,685 福島 2,555 鹿児島 2,485 山口 2,127 広島 1,924 和歌山 1,815 愛媛 1,773 宮崎 1,569 神奈川 1,317 ワッツ・ミサカのように広島にルーツを持つ日系アメリカ人が被爆後の広島でアメリカ兵として任務についたものもいる。また被爆した後アメリカに戻った帰米二世の中には、アメリカ兵として朝鮮戦争に従軍した人物もいる。更に特異な例として、日本で生まれ太平洋戦争中に大久野島で勤労奉仕(大久野島の毒ガス製造参照)、被爆直後の広島に医療活動で入り入市被爆、戦後の移民政策でブラジルに移民した人物もいる。
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