大戦後のドイツとフランス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「大戦後のドイツとフランス」の解説
詳細は「ヴァイマル共和政」、「ヴァイマル憲法」、「ルール問題」、「ドーズ案」、および「ロカルノ条約」を参照 敗戦国ドイツでは、ヴァイマルにおける国民議会でヴァイマル憲法が採択され、ヴァイマル共和政が成立した。ヴァイマル憲法は、史上はじめて社会権を定めた当時最も民主的な憲法だったが、共和国がヴェルサイユ条約を受け入れて過酷な軍縮を行ったことは、急進的右派勢力などから激しい批判を受けており、一部の軍人はカップ一揆を引き起こした。1921年には、連合国によるロンドン会議において1320億金マルクという巨額の賠償金が定められた上、オーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票において、ドイツ帰属が多数(60%以上)だったにもかかわらず、地下資源が豊富な地域がポーランドに割譲されることになり、ドイツ国民のヴェルサイユ体制への反感は高まった。 ドイツは、巨額の賠償金に対し、その支払い延期を要求したが、フランスは賠償不履行を理由に1923年1月ルール工業地帯を軍事占領し、これに対する労働者のサボタージュもあって生産は極度に低下した。他方政府は紙幣を乱発し、23年10月にはマルクの価値が約1兆分の1になるというおそるべきインフレーションを招いた。各地で暴動が相次いだが、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆もその一つである。 1924年、ドイツはようやくドーズ案を受け入れ、信用の裏付けのある新紙幣レンテンマルクを発行して戦後インフレを克服し、アメリカの仲介で賠償支払いの軽減し、アメリカ資本の導入による経済再建をはかった。外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンは協調外交を展開し、ロカルノ条約を結んでフランス・ベルギー国境の不可侵を約束し、1926年には国際連盟に加盟した。 一方、国土が戦場となったフランスは、戦後もドイツの大国化をおそれ、上述のように賠償支払いをきびしく要求し、レイモン・ポアンカレの右派内閣のときにはルール占領を断行した。しかし、対独強硬外交は国際的批判をあびて失敗し、1924年左派連合政権が登場した。25年に外相となったアリスティード・ブリアンはロカルノ条約によりルールからのフランス軍撤兵などを行いドイツとの和解につとめ、1928年にはアメリカ国務長官フランク・ケロッグとともに不戦条約を主導して国際協調に貢献した。
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