アリスティード・ブリアン
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アリスティード・ブリアン
Aristide Briand
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生年月日 | 1862年3月28日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1932年3月7日(69歳没) |
死没地 | ![]() |
所属政党 | フランス社会党 急進社会党 |
在任期間 | 1909年7月24日 - 1911年3月2日 |
大統領 | アルマン・ファリエール |
在任期間 | 1913年1月21日 - 1913年3月22日 |
大統領 | アルマン・ファリエール レイモン・ポアンカレ |
在任期間 | 1915年10月29日 - 1917年3月20日 |
大統領 | レイモン・ポアンカレ |
在任期間 | 1921年1月16日 - 1922年1月15日 |
大統領 | アレクサンドル・ミルラン |
在任期間 | 1925年11月28日 - 1926年7月20日 |
大統領 | ガストン・ドゥメルグ |
その他の職歴
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![]() (1929年7月29日 - 1929年11月2日) |
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アリスティード・ブリアン(Aristide Briand, 1862年3月28日 - 1932年3月7日)は、フランスの政治家。首相、外相などを務めた。
生涯
1862年にナントでブルジョワの家族に生まれた[1]。最初はサンディカリストとして活動したが、ジャン・ジョレスの引きでフランス社会党に入党。1902年には執行部入りし、しばらくの後国民議会議員となる。その後急進社会党に籍を移し、1909年にジョルジュ・クレマンソーの後を受けて首相に就任する。以後、1913年・1915年・1921年・1925年・1929年とたびたび首相に就任する。
1925年の首相期にはルール占領から撤退し(1925年8月)、同年10月にロカルノ条約を調印した[2]。この功績から1926年にノーベル平和賞を受賞し[2]。1927年4月6日にアメリカとの戦争違法化条約を提案し、6月20日に草案を提示すると、アメリカ元国務長官フランク・ケロッグが同年12月28日に多国間条約として逆提案し、1928年8月27日にパリ不戦条約(「戦争ノ抛棄ニ関スル条約」、いわゆる「ケロッグ・ブリアン条約」)が調印された[3]。1930年6月にもフランス軍をラインラントから引き揚げた[2]。
1932年1月に政界から引退し、同年3月7日にパリで死去した[4]。
ブリアンはシュトレーゼマンとケロッグ同様、フリーメイソンである[5]。
人物
ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』の少年大統領ブリアンは彼の名前からとられた。
出典
- ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 515–516.
- ^ a b c 石原司「ブリアン」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2025年9月18日閲覧。
- ^ 濱口學「ケロッグブリアン条約」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2025年9月18日閲覧。
- ^ 「ブリアン」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 。コトバンクより2025年9月18日閲覧。
- ^ Osterrieder, Markus (2010). “Der prophezeite Krieg” (PDF) (ドイツ語). CeltoSlavica. p. 10. 2014年11月10日閲覧.
外部リンク
- アリスティード・ブリアンのページへのリンク