大戦後の不振
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/15 10:13 UTC 版)
大川は1919年、業界大手富士製紙の社長に就任する。大川が関与する大川系企業の洋紙生産高に占めるシェアは、1920年の時点では、樺太工業・九州製紙・中央製紙・中之島製紙の4社(1920年に、木曽興業は中央製紙と、四日市製紙は富士製紙と合併した)の約12%に富士製紙の約33%を加えて約45%となり、王子製紙の約38%を大きく上回っていた。 しかし1920年代になると戦後恐慌に見舞われ、パルプや洋紙の市況も悪化していった。特にパルプの市況悪化が顕著で、洋紙生産にも進出したもののパルプ生産・販売が主力であった樺太工業は、王子製紙や富士製紙と比べると市況悪化の影響を大きく受けて経営を悪化させた。加えて1921年、泊居・真岡の両工場を火災で失うという事態に直面した。 2つの工場を再建した後、パルプ市況が持ち直したため、樺太工業は長期的なパルプ市況の回復を見込んで第3の工場建設に着手した。樺太西海岸北部の恵須取町において1925年11月、亜硫酸パルプを生産する恵須取工場が操業を開始する。ところがこの工場新設はパルプ市況が再び悪化していた時期に重なってしまい、より一層の経営悪化を招いた。パルプほど洋紙の市況は悪化していなかったことから、1927年より恵須取工場をパルプ専業から製紙工場に転換した。 また、1926年4月に合理化を目的に、樺太工業は九州製紙・中央製紙・中之島製紙所の3社を合併した。合併により樺太工業の運営する工場は、泊居・真岡・恵須取の樺太3工場に、中央製紙の中津・木曽両工場(岐阜県および長野県)、中之島製紙の中之島工場(大阪府)、九州製紙の坂本・八代工場(熊本県)を加えて計8工場となった。ただし、木曽工場と中之島工場は2年後の1928年7月に閉鎖されている。
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