大戦後の衰退
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第二次世界大戦後、プルマンは大戦前と同じように寝台車の利用と新造車両の発注を期待していた。しかし、アメリカにおいては旅客鉄道の利用自体が自動車や航空機との競争に敗れて急速に落ち込み始め、同様にプルマンの業績も落ちていった。 プルマン・カンパニーの寝台車の営業とリースは全て、1968年12月31日に打ち切られた。1969年1月1日、寝台車運行部門のプルマン・カンパニーは解散し、全ての資産は清算された。多くの鉄道会社で見られたはっきりとした変化として、プルマン所有車両全てからプルマンの名前が消されたことがある。プルマンの残った資産全ての競売が、シカゴ近郊のイリノイ州プルマン市 (Pullman) の工場で1970年初めに行われた。 プルマン・インコーポレイテッドという会社自体は、残った債務の処理と顧客対応を行うために、1981年から1982年まで、デンバーに事務所を置いて存続していた。 一方、鉄道車両製造事業のプルマン゠スタンダードは、衰退しながらも寝台車営業部門よりは長く営業を続けていた。プルマン゠スタンダードはプルマン市にあった工場を1955年に閉鎖した。プルマン゠スタンダード最後の軽量客車は、1956年4月にユニオン・パシフィック鉄道向けに製造された。その後のプルマン゠スタンダードは、通勤鉄道や地下鉄向けの車両や、アムトラックのスーパーライナーなどを製造していた。 プルマンは1970年のニュージャージー州交通局 (New Jersey Department of Transportation) への販売を皮切りに、トランジット・アメリカ (the Transit America) というブランドで通勤輸送向けのコメット客車(英語版)を販売した。1974年からプルマンは、ニューヨーク市都市交通局にステンレス製の75ft(23m)地下鉄車両750両を納入した。製造契約でR46形という形式となったこの車両は、セントルイス・カー・カンパニー製造のR44形と同様に、マンハッタンの2番街の下の地下鉄新線で70mi/h(113km/h)で走行するように設計されていた。セカンド・アベニューの地下鉄の建設が遅れて、交通局はこれらの車両を他の路線に割り当てた。プルマンは同様にマサチューセッツ湾交通局 (MBTA) 向けの地下鉄車両も製造し、これらはレッドライン (MBTA Red Line) に割り当てられた。
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