大戦後期「ルーデンドルフ独裁」とは? わかりやすく解説

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大戦後期「ルーデンドルフ独裁」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)

ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大戦後期「ルーデンドルフ独裁」」の解説

ファルケンハイン発動し西部戦線ヴェルダンの戦い思わしくなく、また彼が東部から兵力引き抜いた後に東部戦線ロシア軍ブルシーロフ攻勢など一連の攻勢があったことで彼の面目は潰れたファルケンハイン解任求める声が各方面から強まりヴィルヘルム2世無視できなくなった1916年8月27日ルーマニア連合国側参戦したのを機にファルケンハイン更迭されることとなったヴィルヘルム2世後任参謀総長国民人気の高いヒンデンブルク任じた参謀次長には彼の参謀長であるルーデンドルフ任じた。これは文官政府の力だけでは国内政治状態を収めるのは難しくなってきたと判断した宰相ベートマンの推薦よるものだった。しかしヴィルヘルム2世自身ヒンデンブルクルーデンドルフが好きではなかったという。 これ以降ドイツ戦争実質的にルーデンドルフによって指導されようになった。彼はヴィルヘルム2世やベートマン、帝国議会など政治指導者干渉してルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった依然としてヴィルヘルム2世は軍の大元帥最高司令官ではあったが、開戦以来薄かったその存在感がますます薄くなり、もはや陸軍最高司令部帝国議会多数派社民党中央党など)の間をうろうろするだけの周辺的存在に過ぎなくなってしまった。 戦争開始からはじめの2年ほどは宰相ベートマンの指導の下に「城内平和体制」と称する政党労働組合政府への協力求め挙国一致体制構築され戦争目的論争は締め出されていた。ところが戦時国債発行のたびに宰相ベートマンが戦争見通し帝国議会説明せねばならず、そうした中で1916年以降になると帝国議会内でも戦争目的めぐって二つ党派出現した。「勝利の平和」(敵領土併合、敵植民地獲得、敵から賠償金取り立て)を主張する右派勢力と「和解の平和」(無併合、無賠償でよいので早期に敵と平和条約締結)を主張する左派勢力である。「勝利の平和」はドイツ戦況考えるとあまりに現実離れしており、「和解の平和」の立場強まっていった。「和解の平和」を最初に唱えたのは社民党であった1917年になると社民党のみならず中央党進歩人民党(略称FVP自由主義左派勢力合同政党)(de)なども「和解の平和」を支持するようになった1917年3月にはロシア革命により300年続いたロマノフ朝ロシア帝政崩壊したドイツ国民の間にも講和期待する声が高まり反戦運動政府改革求め運動活発になった。3月末には帝国議会内に内政改革求め憲法委員会創設された。こうした動き対応してヴィルヘルム2世4月7日発表した復活祭勅書の中で「戦時中プロイセン選挙法改革準備着手して戦後実施する」と約束した4月ストライキ経て社民党中央党など帝国議会多数派動きは更に活発化した。宰相ベートマンは「和解の平和」論には乗らなかったが、選挙権問題など内政問題帝国議会多数派譲歩決めた。ベートマンの求めに応じてヴィルヘルム2世7月11日プロイセン王国政府に対して三等選挙権制度(de)を改め平等選挙旨とする選挙法改正命じ勅書出した。だが帝国議会多数派はベートマンの努力評価することは無く、彼を批判し続けた1917年2月ドイツ外相メキシコ送ったアメリカ参戦場合ドイツメキシコ同盟を結ぶ用意があり、テキサス州アリゾナ州ニューメキシコ州の中の旧メキシコ領を取り戻すのを援助してもよい。ドイツには日本単独講和準備があり、その後日独墨で反米同盟締結したい」という電報イギリス軍傍受されイギリスはこれをアメリカ通達した。激怒したウッドロウ・ウィルソン大統領電報国民公表しアメリカの反独感情強まった。さらに1917年2月からドイツ海軍イギリス対す無制限潜水艦作戦再開したかねてからドイツ潜水艦作戦迷惑していたアメリカはついに1917年4月6日ドイツ宣戦布告した宰相ベートマンはアメリカ参戦防ごう無制限潜水艦作戦再開反対していたが、ルーデンドルフ軍部は相変わらずアメリカ過小評価し、またアメリカはすでに実質的に参戦しているも同じと主張して強行したであった選挙法問題無制限潜水艦作戦を巡る問題でのベートマンの「弱腰」は帝国議会少数派保守派ルーデンドルフ陸軍最高司令部から批判晒された。また帝国議会多数派もベートマンを「平和的でない」と看做していたため陸軍最高司令部によるベートマン排斥動き協力したヒンデンブルクルーデンドルフ辞職ちらつかせて、7月13日ヴィルヘルム2世にベートマンを罷免させた。帝国議会多数派後継宰相推すことができなかった。一方ルーデンドルフ後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵元海軍長アルフレート・フォン・ティルピッツ考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部来てルーデンドルフらの覚え良かった戦時食糧管理次官ゲオルク・ミヒャエリス就任することとなった。全くの無名人物であり、ヴィルヘルム2世は「まだ見たともない人物だが」と呟いたという。 ミヒャエリス陸軍最高司令部忠実な代弁者として行動し陸軍最高司令部軍事独裁体制完成した帝国議会多数派敗戦避けるためには陸軍最高司令部協力するしかない面があった。議会外に「勝利の平和」を主張する超党派組織としてティルピッツ議長とする祖国党結成され125万人会員有する至った。この組織活動ファシズム先駆けとも言うべきものであり、プロイセン選挙法改正審議にも影響与え結局敗戦までプロイセン議会選挙法改正認めることは無かった。しかし1917年夏に最初水兵反乱があり、更に軍需工場でのストライキはどんどん革命的になってきた。こうした情勢の中ミヒャエリス帝国議会対立深めて不信任突き付けられた。これを受けてヴィルヘルム2世陸軍最高司令部からの抗議無視してミヒャエリス解任した。 帝国議会多数派承認得てからバイエルン王国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵をドイツ・プロイセン宰相任じた。また進歩人民党のフリードリヒ・フォン・パイヤーが副宰相任じられた。ただしヘルトリング自身議会主義反対する保守的な人物であった1918年1月にはベルリンハンブルクキールライプツィヒニュルンベルクなどで軍事工場労働者反戦ストライキ勃発した100万人も参加したストライキとなったが、軍部政府指導者逮捕スト参加者徴兵戒厳状態の強化などの強硬措置臨んだ。しかし1月蜂起弾圧はますます国内革命火種まき散らすこととなった一方戦局悪化続いていた。ドイツ軍連合軍の攻勢先んじて戦線後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線(de:Siegfriedstellung)」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御固めた1917年4月アラス会戦(de)では連合国初め戦車投入してきた。1917年11月末のカンブレーの戦い(de)では400両も投入してきた。対すドイツ不可欠兵器である飛行機輸送車両生産だけで手いっぱい戦車まで余力が回らなかった。第二次大戦では「戦車大国」として知られドイツだが、第一次大戦では「戦車小国であった。 しかし東部戦線ではドイツ勝利を得た革命混乱するロシアドイツ軍はどんどん進撃しロシア首都迫ったため、ウラジーミル・レーニン率いロシア革命政府屈服して1918年3月3日ドイツとの間にブレスト=リトフスク条約締結した。この条約ウクライナバルト三国フィンランドなどがロシアから独立することとなった3月5日にはロシア後援失ったルーマニア降伏し東部戦線終結したロシア脱落受けてドイツ軍アメリカ本格参戦してくる前に西部戦線最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍1918年3月から7月にかけて「カイザーシュラハト皇帝の戦い)」(1918年春季攻勢)作戦行ったドイツ軍8月初めにパリまで80キロまで迫ったが、第二次マルヌ会戦フランス軍アメリカ軍の反撃にあい、ドイツ軍マルヌ川向こうに押し戻された。以降戦い主導権連合軍奪われた。1918年8月8日アミアンの戦い(de)でオーストラリア軍ドイツ軍戦線破られた。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した以降戦況主導権は完全に連合軍握りアメリカ軍中心となってドイツ軍陣地次々と落とされドイツ軍後退重ねることとなった参謀総長ヒンデンブルクヴィルヘルム2世参謀次長ルーデンドルフ 1917年10月同盟国オスマン帝国コンスタンティノープルで。ヴィルヘルム2世オスマン皇帝メフメト5世 1917年12月、フランス・カンブレー。西部戦線前線視察訪れたヴィルヘルム2世

※この「大戦後期「ルーデンドルフ独裁」」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
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