大戦後期「ルーデンドルフ独裁」
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「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「大戦後期「ルーデンドルフ独裁」」の解説
ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍のブルシーロフ攻勢など一連の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。ファルケンハイン解任を求める声が各方面から強まり、ヴィルヘルム2世も無視できなくなった。1916年8月27日、ルーマニアが連合国側で参戦したのを機にファルケンハインは更迭されることとなった。 ヴィルヘルム2世は後任の参謀総長に国民人気の高いヒンデンブルクを任じた。参謀次長には彼の参謀長であるルーデンドルフを任じた。これは文官政府の力だけでは国内の政治状態を収めるのは難しくなってきたと判断した宰相ベートマンの推薦によるものだった。しかしヴィルヘルム2世自身はヒンデンブルクとルーデンドルフが好きではなかったという。 これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。彼はヴィルヘルム2世やベートマン、帝国議会など政治指導者に干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった。依然としてヴィルヘルム2世は軍の大元帥・最高司令官ではあったが、開戦以来薄かったその存在感がますます薄くなり、もはや陸軍最高司令部と帝国議会多数派(社民党・中央党など)の間をうろうろするだけの周辺的存在に過ぎなくなってしまった。 戦争開始からはじめの2年ほどは宰相ベートマンの指導の下に「城内平和体制」と称する全政党・労働組合に政府への協力を求める挙国一致体制が構築され、戦争目的論争は締め出されていた。ところが戦時国債発行のたびに宰相ベートマンが戦争の見通しを帝国議会で説明せねばならず、そうした中で1916年以降になると帝国議会内でも戦争目的をめぐって二つの党派が出現した。「勝利の平和」(敵領土の併合、敵植民地の獲得、敵から賠償金取り立て)を主張する右派勢力と「和解の平和」(無併合、無賠償でよいので早期に敵と平和条約を締結)を主張する左派勢力である。「勝利の平和」はドイツの戦況を考えるとあまりに現実離れしており、「和解の平和」の立場が強まっていった。「和解の平和」を最初に唱えたのは社民党であった。1917年になると社民党のみならず中央党や進歩人民党(略称FVP、自由主義左派勢力の合同政党)(de)なども「和解の平和」を支持するようになった。 1917年3月にはロシア革命により300年続いたロマノフ朝のロシア帝政が崩壊した。ドイツ国民の間にも講和を期待する声が高まり、反戦運動や政府に改革を求める運動が活発になった。3月末には帝国議会内に内政改革を求める憲法委員会が創設された。こうした動きに対応してヴィルヘルム2世は4月7日に発表した復活祭勅書の中で「戦時中にプロイセン選挙法改革の準備に着手して戦後に実施する」と約束した。4月ストライキを経て社民党や中央党など帝国議会多数派の動きは更に活発化した。宰相ベートマンは「和解の平和」論には乗らなかったが、選挙権問題など内政問題で帝国議会多数派に譲歩を決めた。ベートマンの求めに応じてヴィルヘルム2世は7月11日にプロイセン王国政府に対して三等級選挙権制度(de)を改めて平等選挙を旨とする選挙法改正を命じる勅書を出した。だが帝国議会多数派はベートマンの努力を評価することは無く、彼を批判し続けた。 1917年2月にドイツ外相がメキシコに送った「アメリカ参戦の場合、ドイツはメキシコと同盟を結ぶ用意があり、テキサス州、アリゾナ州、ニューメキシコ州の中の旧メキシコ領を取り戻すのを援助してもよい。ドイツには日本と単独講和の準備があり、その後日独墨で反米同盟を締結したい」という電報がイギリス軍に傍受され、イギリスはこれをアメリカに通達した。激怒したウッドロウ・ウィルソン大統領は電報を国民に公表し、アメリカの反独感情が強まった。さらに1917年2月からドイツ海軍はイギリスに対する無制限潜水艦作戦を再開した。かねてからドイツの潜水艦作戦に迷惑していたアメリカはついに1917年4月6日にドイツに宣戦を布告した。宰相ベートマンはアメリカの参戦を防ごうと無制限潜水艦作戦再開に反対していたが、ルーデンドルフら軍部は相変わらずアメリカを過小評価し、またアメリカはすでに実質的に参戦しているも同じと主張して強行したのであった。 選挙法の問題や無制限潜水艦作戦を巡る問題でのベートマンの「弱腰」は帝国議会少数派の保守派やルーデンドルフら陸軍最高司令部から批判に晒された。また帝国議会多数派もベートマンを「平和的でない」と看做していたため陸軍最高司令部によるベートマン排斥の動きに協力した。ヒンデンブルクとルーデンドルフは辞職をちらつかせて、7月13日にヴィルヘルム2世にベートマンを罷免させた。帝国議会多数派は後継の宰相を推すことができなかった。一方ルーデンドルフは後任に元宰相ベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵か元海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツを考えたが、この二人はかつてヴィルヘルム2世が解任した人物であったからヴィルヘルム2世から反対があり、結局先日陸軍最高司令部に来てルーデンドルフらの覚えが良かった戦時食糧管理庁次官ゲオルク・ミヒャエリスが就任することとなった。全くの無名の人物であり、ヴィルヘルム2世は「まだ見たこともない人物だが」と呟いたという。 ミヒャエリスは陸軍最高司令部の忠実な代弁者として行動し、陸軍最高司令部の軍事独裁体制が完成した。帝国議会多数派も敗戦を避けるためには陸軍最高司令部に協力するしかない面があった。議会外に「勝利の平和」を主張する超党派組織としてティルピッツを議長とする祖国党が結成され、125万人の会員を有するに至った。この組織の活動はファシズムの先駆けとも言うべきものであり、プロイセン選挙法改正の審議にも影響を与え、結局敗戦までプロイセン議会が選挙法改正を認めることは無かった。しかし1917年夏に最初の水兵の反乱があり、更に軍需工場でのストライキはどんどん革命的になってきた。こうした情勢の中ミヒャエリスは帝国議会と対立を深めて不信任を突き付けられた。これを受けてヴィルヘルム2世は陸軍最高司令部からの抗議を無視してミヒャエリスを解任した。 帝国議会多数派の承認を得てからバイエルン王国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵をドイツ・プロイセン宰相に任じた。また進歩人民党のフリードリヒ・フォン・パイヤーが副宰相に任じられた。ただしヘルトリング自身は議会主義に反対する保守的な人物であった。1918年1月にはベルリン、ハンブルク、キール、ライプツィヒ、ニュルンベルクなどで軍事工場労働者の反戦ストライキが勃発した。100万人も参加したストライキとなったが、軍部や政府は指導者逮捕、スト参加者の徴兵、戒厳状態の強化などの強硬措置で臨んだ。しかし1月蜂起の弾圧はますます国内に革命の火種をまき散らすこととなった。 一方戦局は悪化が続いていた。ドイツ軍は連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線(de:Siegfriedstellung)」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。1917年4月のアラス会戦(de)では連合国が初めて戦車を投入してきた。1917年11月末のカンブレーの戦い(de)では400両も投入してきた。対するドイツは不可欠兵器である飛行機や輸送車両の生産だけで手いっぱいで戦車まで余力が回らなかった。第二次大戦では「戦車大国」として知られたドイツだが、第一次大戦では「戦車小国」であった。 しかし東部戦線ではドイツは勝利を得た。革命で混乱するロシアにドイツ軍はどんどん進撃し、ロシアの首都に迫ったため、ウラジーミル・レーニン率いるロシア革命政府は屈服して1918年3月3日にドイツとの間にブレスト=リトフスク条約を締結した。この条約でウクライナ、バルト三国、フィンランドなどがロシアから独立することとなった。3月5日にはロシアの後援を失ったルーマニアも降伏し、東部戦線は終結した。 ロシア脱落を受けてドイツ軍はアメリカが本格参戦してくる前に西部戦線に最後の攻勢をかけることにした。ドイツ軍は1918年3月から7月にかけて「カイザーシュラハト(皇帝の戦い)」(1918年春季攻勢)作戦を行った。ドイツ軍は8月初めにはパリまで80キロまで迫ったが、第二次マルヌ会戦でフランス軍、アメリカ軍の反撃にあい、ドイツ軍はマルヌ川の向こうに押し戻された。以降戦いの主導権は連合軍に奪われた。1918年8月8日、アミアンの戦い(de)でオーストラリア軍にドイツ軍の戦線が破られた。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍暗黒の日」と称した。以降戦況の主導権は完全に連合軍が握り、アメリカ軍が中心となってドイツ軍陣地が次々と落とされ、ドイツ軍は後退を重ねることとなった。 参謀総長ヒンデンブルク、ヴィルヘルム2世、参謀次長ルーデンドルフ 1917年10月、同盟国オスマン帝国コンスタンティノープルで。ヴィルヘルム2世とオスマン皇帝メフメト5世 1917年12月、フランス・カンブレー。西部戦線の前線視察に訪れたヴィルヘルム2世
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