ヒンデンブルク線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「ヒンデンブルク線」の解説
1916年の8月にはドイツ軍の指導部が交代し、ファルケンハインが辞任した参謀総長の職にパウル・フォン・ヒンデンブルクが就任した。実際の指揮はタンネンベルクの戦いからヒンデンブルクの下で参謀役を務めたエーリッヒ・ルーデンドルフが参謀次長として行った。ルーデンドルフはヴェルダンとソンムでの戦闘によって、ドイツ軍の攻撃能力が低下していたことから1917年の西部戦線では防御的な戦略をとり、他の戦線において攻勢をかけることを決定した。 ソンムの戦いとその後の冬の期間を利用して、ドイツ軍は前線にヒンデンブルク線(英語版)と称される要塞群の建設を行っていた。ルーデンドルフの意図したのは、凹凸が生じている西部戦線を整理し、人的資源にやや劣るドイツ軍でも十分な防御が行えるようにすることであった。この要塞群はアラスからサン=カンタンまでを繋いでおり、1916年11月にイギリス軍の偵察機によって初めて確認された。
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