フランス軍の戦意消失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:37 UTC 版)
「西部戦線 (第一次世界大戦)」の記事における「フランス軍の戦意消失」の解説
詳細は「フランス軍反乱」を参照 同月にフランス軍の将軍ロベール・ニヴェルは新たな攻勢計画を指令している。後にニヴェル攻勢と称されることになったこの攻撃計画においては、一週間の準備砲撃に後に120万人の兵士が戦車と共に進撃することになっていた。この時点ではドイツ軍が制空権を手中に収めており、ニヴェルの提唱した移動弾幕射撃の効果は思ったほどあがらなかった。ヒンデンブルク線における堅固なドイツ軍防御陣地に突撃した兵士の多くが死傷した。一週間の内に10万人もの死傷者が出た事実に加え、事前にニヴェルが成功を予告していた事が災いし、フランス軍部隊の間に不穏な空気が広がっていった。 5月3日にヴェルダン戦を戦ったフランス第2師団の一部が与えられた命令を拒絶し、酒を片手にして武器を放棄し始めた。あまりに多くの命令拒否に直面した士官達は兵を罰する事ができず、厳しい処置はとられなかった。反乱がフランス軍全体を襲い、合計54の師団において同様の事件が発生し、2万名の兵士が脱走した。愛国心に訴え、環境の改善を図る事で、兵士を塹壕に戻らせる事には成功したが、兵士達が攻撃命令には従わないであろうことは明らかであった。5月15日にニヴェルは解職されヴェルダン戦前半を指揮したフィリップ・ペタンがその後任に就任した。フランス軍は翌年になっても防御的な戦略に終始し、攻勢計画は全てイギリス軍にゆだねている。
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