フランス軍の退却
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フランス軍の中央が敗北を喫している頃、ザクセン人大隊を率いるザクセン公子クサーヴァーはシュペルケン大将の歩兵をやや押し戻すほど奮闘していた。しかしシュペルケン大将は、すでにフランス軍の騎兵突撃の間にも援護を受けていたヘッセン近衛連隊及び「ヴァンゲンハイム」連隊所属の大隊から支援される。さらに、北にはシェーレ少将の5個大隊が来援し、そちらからもザクセンとフランスの戦列を包囲し始めていた。連合軍の砲兵隊も強力な砲撃をもってザクセン軍に損害を与え、その抵抗の意志を奪った。ハーレンは放棄され、フランス軍の左翼は全体的にバスタウ川へと退却する。連合軍には追撃に用いられる騎兵隊が存在せず、この成功に乗じることができなかった。ここでもサックヴィル卿率いる騎兵24個中隊の欠如が響いたのである。 午前9時、コンタード元帥はこの戦況を見て取ると全軍の退却を命令した。この撤退を援護する役目は、指揮下の軍団の秩序をまだ良く保っていたブロイ公が受け持つ。コンタード侯がボープレウ中将に成果なく終わった攻撃を命じる前、ブロイ公は侯と話していた。彼は地勢が険しいため、トーテンハウゼン方面に攻撃をかけることはできないと報告していたのである。コンタード侯はそれを受けて、公に自陣に留まるよう命じていた。フランス軍の右翼では、ブロイ公とヴァンゲンハイム少将の部隊の間で砲撃が応酬されたのみであった。ここで格別の功を立てたのは、指揮下の砲兵隊を特に有効に投入したシャウムブルク=リッペ伯フリードリヒ・ヴィルヘルム(英語版)(1724年-1777年)であった。ブロイ公の部隊とニコライ師団は、追撃してくるヴァンゲンハイム軍団を食い止めるため度々停止しつつ、整然と後退する。主力軍は逃げるようにバスタウ川を越えて退却し、背後で橋を焼き落とした。ブロイ公の軍団は11時までミンデンを占領した。 コンタード侯が部隊の結集を試みた時、連絡線を守るはずであったブリサック公の分遣隊も攻撃を受けて敗退したという報告が届く(ゴーフェルトの戦い(ドイツ語版))。これによってパーダーボルン経由の退路は断たれ、コンタード侯はヴェーザー川の右岸沿いに後退するよう決断せねばならなかった。侯は午後10時から川を渡り始めたが、その際に掛かっていた二つの舟橋の内、一つが崩壊した。渡河が完了したのは翌朝のことである。負傷兵に満ちたミンデンの町に残ったのは、ダジャン准将指揮下の占領軍300名のみであった。
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