フランス軍の退却とは? わかりやすく解説

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フランス軍の退却

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 01:04 UTC 版)

ミンデンの戦い」の記事における「フランス軍の退却」の解説

フランス軍中央敗北喫している頃、ザクセン人大隊率いザクセン公クサーヴァーシュペルケン大将歩兵をやや押し戻すほど奮闘していた。しかしシュペルケン大将は、すでにフランス軍騎兵突撃の間にも援護受けていたヘッセン近衛連隊及び「ヴァンゲンハイム」連隊所属大隊から支援される。さらに、北にはシェーレ少将の5個大隊来援し、そちらからザクセンフランス戦列包囲し始めていた。連合軍砲兵隊強力な砲撃をもってザクセン軍に損害与え、その抵抗意志奪ったハーレン放棄されフランス軍左翼全体的にバスタウ川へと退却する連合軍には追撃用いられる騎兵隊存在せず、この成功乗じることができなかった。ここでもサックヴィル卿率い騎兵24個中隊の欠如響いたのである午前9時、コンタード元帥はこの戦況見て取る全軍退却命令した。この撤退援護する役目は、指揮下の軍団秩序をまだ良く保っていたブロイ公が受け持つ。コンタード侯がボープレウ中将成果なく終わった攻撃命じる前、ブロイ公は侯と話していた。彼は地勢険しいため、トーテンハウゼン方面攻撃をかけることはできない報告していたのである。コンタード侯はそれを受けて公に自陣留まるよう命じていた。フランス軍右翼では、ブロイ公とヴァンゲンハイム少将部隊の間で砲撃応酬されたのみであった。ここで格別の功を立てたのは、指揮下の砲兵隊を特に有効に投入したシャウムブルク=リッペ伯フリードリヒ・ヴィルヘルム英語版)(1724年-1777年であったブロイ公部隊ニコライ師団は、追撃してくるヴァンゲンハイム軍団食い止めるため度々停止しつつ、整然と後退する主力軍は逃げるようにバスタウ川を越えて退却し背後焼き落とした。ブロイ公軍団11時までミンデン占領した。 コンタード侯が部隊結集試みた時、連絡線を守るはずであったブリサック公の分遣隊攻撃受けて敗退したという報告が届く(ゴーフェルトの戦いドイツ語版))。これによってパーダーボルン経由退路断たれ、コンタード侯はヴェーザー川右岸沿いに後退するよう決断せねばならなかった。侯は午後10時から川を渡り始めたが、その際掛かっていた二つ舟橋の内、一つ崩壊した渡河完了したのは翌朝のことである。負傷兵満ちたミンデンの町に残ったのは、ダジャン准将指揮下の占領軍300名のみであった

※この「フランス軍の退却」の解説は、「ミンデンの戦い」の解説の一部です。
「フランス軍の退却」を含む「ミンデンの戦い」の記事については、「ミンデンの戦い」の概要を参照ください。

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