フランス軍への戦勝
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「ジュゼッペ・ガリバルディ」の記事における「フランス軍への戦勝」の解説
詳細は「ローマ共和国」および「Assedio di Roma (1849)」を参照 ガリバルディは、1848年の一連の革命騒動を聞きつけてイタリアへと帰国した。革命はイタリアにも波及し、マッツィーニの指導によって「ローマ共和国」が成立した。ナポレオン3世はこれを倒すために軍を送り、これに対抗するためガリバルディはローマ防衛の責任者となった。フランス軍はローマの強奪者たちを軽んじていたが、ロンバルディアやピエモンテ、リグリアから馳せ参じた義勇兵たちとガリバルディはテヴェレ川西岸のバチカンの南で起こったローマ大学の戦い(イタリア語版)においてジャニコロ丘でフランス軍を破り、敗走させた。しかしマッツィーニが追撃に反対したせいもあって体制を立て直したフランス軍は、数に任せて攻勢を繰り返し、ローマを包囲下に置いた。1849年6月30日、マッツィーニとガリバルディはアペニン山脈に退いての継戦、ローマ市街地での玉砕、フランス軍への降伏の三択のいずれを選ぶか協議した。 ガリバルディは「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」(Dovunque saremo, colà sarà Roma) と抗戦を主張して、7月2日に4,000人の兵士を連れてローマを脱出した。7月3日、ローマに入城したフランス軍は教皇領を復活させてガリバルディ軍に追撃の軍を送り、ガリバルディは北イタリア各地を転戦しながら残る独立共和国ヴェネツィアへと向かった。スペイン軍、フランス軍、オーストリア軍、ナポリ軍の追撃の前に多くの兵士が倒れ、ラヴェンナの近くで妻のアニータ(彼女は「イタリアのアマゾネス」と呼ばれた女傑で、常に夫と共に前線で戦った)も戦死した。
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